司馬遼太郎が感銘受けた竹富島 琉球の原風景と伝統保全の現在
司馬遼太郎が感銘受けた竹富島 琉球の原風景と伝統保全

沖縄県の竹富島は、白と灰色の地の上に、酸化鉄のような色の琉球瓦の家々が並ぶ風景で知られる。作家・司馬遼太郎は1974年にこの島を訪れ、その原風景に感銘を受けた。半世紀を経た今も、赤瓦の琉球家屋や白砂の道は守られ、観光客を乗せた水牛車がゆったりと進む。

「街道をゆく」と竹富島

司馬遼太郎の紀行文集「街道をゆく」は、1971年に週刊誌連載が始まり、司馬が亡くなる1996年まで続いた。日本国内に加えモンゴルや台湾など海外も訪れ、日本民族や文化の源流を探る内容で、単行本43巻に及ぶ。

「沖縄・先島への道」は、1974年4月に沖縄本島、石垣島、竹富島、与那国島を訪れた際の記録だ。司馬作品に造詣の深い作家の関川夏央さんは、司馬が作家の島尾敏雄と那覇で落ち合ったことに訪問の動機が隠されているとみる。

「戦争末期、司馬は連合国軍の本土上陸に対処する部隊に配属され、島尾は鹿児島・加計呂麻島に特攻艇隊長として赴任し、ともに死を覚悟していた。司馬は島尾と語り合うことで、沖縄戦というテーマに切り込もうとしたと推測しています。残念ながら、話題がその方向に向かわなかった」

そのため、司馬の旅は日本の上流としての沖縄を探ることが主眼となった。日本の古語が沖縄では方言として残り、稲は沖縄諸島を伝って日本に伝来した説がある、などと記している。

島の歴史と伝統的景観の保全

竹富島は周囲約9キロ・メートルの小さな島だが、かつて首里王府が八重山全体の蔵元(行政庁)を置いたという歴史がある。さらに、昔ながらの集落が守られ、琉球の原風景が広がる。

こういった伝統的景観保全の取り組みは1970年代から始まった。竹富島地域自然資産財団の上勢頭篤理事長は「私の父や『街道をゆく』にも登場する叔父が中心となったのですが、きっかけは随筆家の岡部伊都子さんら、島を訪れた文化人が島の風物の素晴らしさを訴えたこと。ただ僕自身は利便性のために開発を進めた方がいいのではと懐疑的でした」と振り返る。だが、青年会の一員として各戸調査に当たった時、風通しが良く真夏でも快適に過ごせる伝統家屋の良さを実感した。「単に外形を残すのではなく、島の文化や心を守ることの意味を悟りました」と続けた。

86年に保存の理念を掲げた「竹富島憲章」を制定し、87年に重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けた。上勢頭理事長は「伝統家屋は定期的な修繕が必要。そのための技術継承、近年の資材高騰など課題は少なくない」と語る。

島の暮らしと観光の現在

散策していると、島の人々が自らの歴史を大切にしていることがわかる。犬が見つけたと伝わり長く水の供給源となっていたナージ井戸、首里王府から派遣された権力者の求婚を断わり、民謡「安里屋ユンタ」にも登場する18世紀に生きた才色兼備の安里クヤマの生家や墓など、生活に密着した史跡が点在する。5・4平方キロ・メートルの小さな島内には西塘御嶽(ニシトウオン)、幸本御嶽(コントゥオン)など島由来の神々や功労者をまつる御嶽(うたき)が28も設けられている。

司馬が宿泊した高那旅館は今も営業し、司馬をもてなした創業者の2人の娘が経営を引き継ぐ。妹の高那弘子さん(76)は「当時私たちは島を離れていて司馬さんに会えなかったのですが、古き良き琉球の風情が残る竹富島をとても気に入っていたと聞きます」と話す。司馬が泊まった部屋の床の間には「街道をゆく」の同旅館を記述した箇所が額装され飾られ、脇には司馬が苦言を呈していた北海道の民芸品の木彫りの熊が置かれる。「決まりの悪かった両親が片付けたのですが、その後のお客さんから『司馬さんが書いていた熊はどこ?』と聞かれることが続き、もとに戻しました」と弘子さんは笑った。

伝統的建造物群保存地区に対しては補助制度があるが、近年の資材高騰の影響もあり、人口約350人の竹富島での保全活動は容易ではない。2019年からその資金にあてるため300円の入島料を導入したが、あくまでも任意で徴収率は芳しくない。島の風物を求め訪れる人は、この制度を頭にとどめてほしい。