世界的記号学者ウンベルト・エーコによる『薔薇の名前』は、中世イタリアの修道院を舞台にした知的ミステリーであり、空前絶後のアカデミック小説として知られる。しかし、久しぶりに読み返して驚いたのは、「知を誰が管理するのか」という、AI時代における切実な問いが隠されていたことだ。
1327年の修道院:知のインフラとしての図書館
時は1327年、北イタリアの山腹に立つベネディクト会の修道院。そこには巨大な図書館がそびえ、ギリシャ哲学、神学、アラビアの学問など世界中の知が集められ、キリスト教圏で最大の蔵書数を誇っていた。館内では修道僧たちが気の遠くなるような写本作業を担い、後世へ知を伝えている。グーテンベルク革命すら起きる前、修道院は知識の収集・保存・流通を担当する「知のインフラ」だった。
中世のシャーロック・ホームズ:連続死の謎
そんな中、写本担当の修道僧が不可解な死を遂げ、第2、第3の犠牲者が出て、人々は悪魔の仕業ではないかと恐れ始める。調査を依頼された元異端審問官の修道士ウィリアムは、鋭い観察眼と論理的推理を武器に、若き弟子アドソとともに謎を追う。その姿はさながら「中世のシャーロック・ホームズ」だ。やがて捜査が進むにつれ、迷宮のような複雑な構造を持つ図書館に隠された禁断の秘密へと近づいてゆく。
AI時代の「知の管理」という問い
この物語は、単なる歴史ミステリーではない。知識の独占と管理がもたらす危険性、そして情報へのアクセス権を誰が持つべきかという問題を浮き彫りにする。現代のAI時代において、巨大なデータセットを管理する企業や機関が「知の管理」を担う存在として、修道院と重なる。『薔薇の名前』は、その問いを中世の修道院という舞台で先取りしていたのだ。
ビジネスに効く名著のエッセンス
本記事は、ビジネスに効く名著のエッセンスを識者がコンパクトに解説するシリーズの一環。原則土曜日更新で、次回は『薔薇の名前(下)』を読み解く。AI時代にこそ、この古典が投げかける問いに向き合う意義は大きい。



