邪馬台国がどこにあったのか――この古代史最大の謎は、なぜ長年にわたって決着を見ないのか。元・東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、その背景に意外と人間臭い事情があると指摘する。本稿では、同氏の著書『東大教授、日本史の謎を語り尽くす』から一部を抜粋・編集し、日本の「始まり」がいつも揺れている理由を読み解く。
始まりとして語られてきた邪馬台国
古代の日本史を語ろうとすると、ほとんどの場合、最初に話題に出るのが邪馬台国だ。3世紀頃の出来事であり、その所在地はいまも確定していない。日本史には未解決の問題がいくつもあるが、これほど広く知られ、長い間語られてきたテーマはそう多くない。邪馬台国は、古代史の「入り口」にずっと置かれ続けてきた問題だと言っていい。
一般によく知られてきたのは、邪馬台国は九州にあったのではないかという考え方だ。その根拠として挙げられるのが、中国の歴史書『魏志』倭人伝である。そこに記された行程をそのまま地理的にたどっていくと、北九州あたりに行き着くように読める。このため、数少ない同時代の史料を重視する立場から、九州説は長く有力だと考えられてきた。古代史では、同じ時代に書かれた記録そのものが限られている。だからこそ、同時代の記述に依拠したいという姿勢は自然なものだ。
九州説を納得感のあるものにした「わかりやすさ」
この九州説が広く受け入れられてきた理由は、史料の読みやすさだけではない。邪馬台国が九州にあり、その後、政治の中心が畿内へ移ったと考えると、『古事記』や『日本書紀』に描かれる神武天皇東征の物語と重ねやすくなる。神武天皇が九州から東征し、畿内で即位したという説話は、邪馬台国九州説と見事に整合する。この「わかりやすさ」が、九州説に多くの支持者を生んできた。
しかし、研究の積み重ねは別の景色を示してきた。考古学の発掘調査が進むにつれ、畿内(現在の奈良県や大阪府周辺)に3世紀の大規模な遺跡や王墓が次々と見つかっている。例えば、奈良県の纒向遺跡は、3世紀前半から半ばにかけての巨大な集落遺跡であり、邪馬台国の有力な候補地とされる。こうした発見は、畿内説を強く支持する根拠となっている。
神武天皇に並ぶ「もう1人の主役」
邪馬台国論争には、もう一つの側面がある。それは、卑弥呼という女王の存在だ。神武天皇が伝説上の初代天皇とされるのに対し、卑弥呼は中国の史書に実在が記録された最初の日本の統治者である。このため、邪馬台国論争は単なる所在地問題にとどまらず、日本の国家形成の始まりをどう捉えるかという本質的な問いを含んでいる。
本郷和人氏は、邪馬台国論争が長引く理由の一つに、研究者の人間臭い事情を挙げる。「自分の説が正しいと信じたい」「ライバルに負けたくない」といった競争心や、学会での立場を守ろうとする思惑が、論争に熱を帯びさせてきたという。また、邪馬台国問題はメディアに取り上げられやすく、一般の関心も高いため、研究者にとっては格好のテーマであり続けている。
実務を担った人物と、集団で動く政治
さらに、本郷氏は邪馬台国論争の背景に、古代政治の二重構造があると指摘する。一方で、対外的に日本を代表する「顔」となる人物像――卑弥呼や天皇――が存在し、他方で、実際の政治を動かした実務担当者や集団がいた。この二層構造が、史料の解釈を複雑にし、所在地論争に決着がつきにくい理由の一つだという。
例えば、『魏志』倭人伝に記された卑弥呼の姿は、まさに「顔」としての役割を強調している。彼女は鬼道(まじない)を用いて衆を惑わし、弟が政治の実務を補佐したとされる。この記述は、日本古代の政治が個人のカリスマと集団の合議制によって動いていたことを示唆している。
対外的に日本を代表する「顔」となる人物像
邪馬台国問題は、日本の歴史認識の根幹に関わる。所在地が確定しないままであることは、日本という国家の始まりが「揺れている」ことを象徴している。本郷氏は、この「揺れ」こそが日本史の特徴であり、それを受け入れることこそが歴史を深く理解する第一歩だと語る。
結局のところ、邪馬台国論争は単なる地理的な問題ではない。それは、史料の限界、研究者の思惑、そして国家形成の物語をどう紡ぐかという、人間の営みそのものを映し出している。だからこそ、この論争は古代史の入り口に居座り続けるのだ。



