江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦闘で大敗を喫し、薩長側に錦の御旗が与えられたことで、怒濤のように攻めかかられると、戦闘開始から3日後、大坂城から脱走して江戸へ逃亡した。歴史作家の河合敦氏は「過信や見込みの甘さが、慶喜の人生を暗転させた」と指摘する。
幼少より聡明だった徳川慶喜
徳川慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれ、一橋家(徳川御三卿の一つ)の家督を継いだ。幼少より聡明だったので、斉昭もその将来に大いに期待を寄せ、ことのほかかわいがった。
やがて病弱な13代将軍・家定に子が生まれる可能性のないことがわかると、斉昭をはじめ開明的な雄藩の大名たちは、その後嗣に慶喜を強く推した。だが、大老の井伊直弼は紀州(和歌山県)藩主・徳川慶福(家茂)をその座にすえ、反発した一橋派の大名を弾圧(安政の大獄)。慶喜も数年間の逼塞を余儀なくされた。
将軍職就任と大政奉還
しかし文久2年(1862)に復権して14代将軍・家茂の将軍後見職となり、政局の中心である京都で目覚ましい活躍を見せると、元治元年(1864)に孝明天皇の信頼を得て、朝廷の禁裏守衛総督に任命された。
慶喜は、会津藩主・松平容保らと結んで、京都で政治権力を持つようになり、慶応2年(1866)夏、第2次長州征討の最中に将軍・家茂が病死すると、これにかわって徳川宗家を継ぎ、さらに15代将軍になった。
だが、長州征討で幕府軍が長州藩に敗北したことにより、倒幕の流れは一気に加速する。すると慶喜は、土佐藩(高知県)の献策を受け入れ、慶応3年(1867)10月、朝廷に政権を返上(大政奉還)したのである。
鳥羽・伏見の敗戦と大坂城脱走
その後、慶喜は鳥羽・伏見の戦闘で大敗を喫する。薩長側に錦の御旗が与えられたことで、怒濤のように攻めかかられると、戦闘開始から3日後、大坂城から脱走して江戸へ逃亡した。
河合氏は、慶喜の過信や見込みの甘さが、その人生を暗転させたと解説している。なお、本稿は河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』(三笠書房)の一部を再編集したものである。



