スモーキングルーム第150回:ホテルの静寂を破る謎の訪問者
早朝のホテルは、深い眠りに包まれていた。金ボタンが到着した時、館内はまだ寝静まっており、静けさが支配していた。彼は届いたばかりの新聞を手に、洗濯部屋へと向かった。そこには、すでに蝶ネクタイを結んだ煙がアイロン台の前に立っていた。
「お帰り」と煙は言い、金ボタンから新聞を受け取った。金ボタンは乾いた唇で、「俺も一緒にやる」と告げた。二人は無言で作業を始めるが、手に取った新聞には異変が起きていた。
検閲の痕跡と歪んだ十字架
新聞のあちこちの記事が抜き取られ、まるで虫食い状態になっていた。中には、第一面が完全に白紙のものさえあった。特に目を引いたのは、歪に傾いた十字架を大きく掲載した新聞だ。「一つの民族、一つの帝国、一人の総統」という文字が躍り、不気味な存在感を放っていた。
金ボタンと煙は言葉を交わすこともなく、黙々と新聞にアイロンをかけ続けた。その静かな作業は、ホテルの朝の儀式のようでもあった。
車椅子の老人とホテルの主人
翌日、ホテルの正面玄関に総支配人の車が止まった。車椅子が降ろされ、総支配人自らがゆっくりと押してくる。その車椅子には、長い顎鬚を生やした老人が座っていた。鬚も髪も真っ白で、どこか威厳を感じさせる風貌だった。
老人は玄関ホールの大きなシャンデリアの下で車椅子を止めさせ、赤い絨毯が敷かれた大階段をじっと見つめた。煙が静かに近づき、恭しくお辞儀をすると、老人はくすんだ緑色の目を煙に向けた。
「君が煙か」と、老人は息を吐くように言った。煙は「はい。初めまして、オーナー。お会いできて光栄です」と答えるが、老人は挨拶を遮った。
緊急の身分証発行と消えたJ
「挨拶はいい。君の身分証を取り急ぎ作らせた。針金はどうした。就業許可証を持っていればJでも連行されることはない。すぐに、このホテルにいるJすべての就業許可証を発行しろ」と、老人は総支配人を振り返って命じた。
しかし、煙は静かに首を振り、「もうここにはいません」と告げた。老人が「どこにいる」と問うと、煙は微笑みながら再び首を横に振った。老人は苛立ったように溜息をつき、こう呟いた。
「私に助けを求めたら良かったのに。最後まで、余計なことを話さない奴だったな」
煙の問いと老人の忠誠心
煙は口を開き、「貴方は公爵家の最後の家令だった方ですね」と尋ねた。老人は黙ったまま顎鬚に手をやり、煙の言葉を待った。
「貴方は公爵家が平民になった後も当主を支え続けた。会社を興し、株で資産を増やし、公爵家の屋敷も別邸であったこのホテルも買い取った。そして、今度はわたくしたちを助けようとしてくださる。なぜです」
老人は静かに答えた。「ただの忠誠心だよ。骨董品のような美徳さ」煙はさらに問いかける。「美徳のために命をお懸けになりますか」
この問いかけに、老人は何も答えなかった。ホテルの朝は、再び深い静寂に包まれた。金ボタンと煙の日常は、この謎の老人の訪問によって、微妙に変化しようとしていた。検閲された新聞、消えたJと呼ばれる人々、そして老人の忠誠心――ホテルには、まだ語られていない物語が潜んでいるようだった。



