パナソニックグループのパソコン事業の歴史は、1959年に完成した小型トランジスタ計算機「MADIC-I」に遡る。松下電器産業通信事業部東京研究部(後の松下通信工業、パナソニックモバイルコミュニケーションズ、現在のパナソニックコネクト)が開発したこのマシンをベースに、1961年10月には同社初の商用コンピュータ「MADIC-IIA」が完成した。
撤退と再参入の波
しかし、創業者の松下幸之助は1964年、国内企業のコンピュータ事業参入が相次ぐ中、撤退を決断。家電事業への投資を優先した。だが、松下通信工業は1968年に交通制御向け16ビットミニコン「MACC-7」を開発。1973年7月には富士通との合弁でパナファコム(現PFU)を設立し、1977年には世界初の16ビットマイコン搭載ワンボードマイコン「LKIT-16」を発売するなど、新たな基盤を築いた。
パナファコムの出資比率は富士通35%、富士電機15%、松下電器産業20%、松下通信工業25%、松下電送機器5%で、折半に近い形だった。松下電工の丹羽正治社長が会長、富士通の高羅芳光社長が社長を兼務し、出資各社の社長全員が取締役に名を連ねるなど、パナソニックのコンピュータ事業への本気度がうかがえる。
パソコン時代の幕開け
1978年、松下通信工業が「マイブレーン」シリーズを発売し、パソコン事業に参入。第1号機「JD-700」「JD-800」は8ビットCPU 8085を搭載し、会話型拡張BASICとCP/Mを採用。給与計算や在庫管理などの業務用端末として活躍した。1983年には16ビット化した「JB-3000」(8088搭載)を発売。1984年のMS-DOS搭載機「JB-5000」は生命保険会社や金融機関のオンライン端末として導入された。
一方、松下電器産業本体も1978年に第2特機開発部を設置し、オフコン「BC」シリーズを開発。日本語入出力のための独自OSや言語、簡易入力デバイス「キーマット」、漢字プリンタを用意した。米国市場向けには1981年にハンドヘルドコンピュータ「RL-H1000」、1983年にIBM PC互換ポータブル「シニアパートナー RL-H7000」、1985年にプラズマディスプレイ搭載ラップトップ「エグゼクティブパートナー FT-10」、1986年にデスクトップ「ビジネスパートナー FX-600」を発売した。
だが1987年、日米半導体協定違反を理由に米国が日本製パソコンに100%の報復関税を課したため、パナソニックブランドのIBM PC互換機の製品化を中断。その後はニクスドルフやタンディ、シーメンス、AT&T、パッカードベルなどへのOEM事業にシフトした。
百花繚乱のパソコン群
パナソニックブランドのIBM PC互換機が再開されたのは1989年のノートパソコン「CF-150」から。松下電器産業のコンピュータ事業部が担当し、軽量・高性能を追求。1994年にはCD-ROMドライブ内蔵ノート「CF-41」が話題を呼んだ。
松下通信工業の電卓事業部は1981年に入門機「JR-100」を発売。独自BASICを内蔵し、図形描画やカセットテープへの保存が可能で、専用ゲームソフトも提供。1983年にはハンドヘルド「JR-800」も製品化した。
パナファコムは松下電器産業の情報システム販売センターを通じ、オフィス向け多機能パソコン「オペレートシリーズ」を展開。1983年には「C-280」と同じ機種を「オペレート7000(当初NATIONAL C-7000)」として発売。富士通も「FACOM 9450II」として販売した。キャッチフレーズは「1台5役、同時に2役」で、複数業務をこなすパソコンとして訴求した。
1987年には松下電器産業のパーソナルコンピュータ部が富士通FMRシリーズ互換の「Panacom Mシリーズ」を発売。デスクトップ「M500/M700」に続き、1988年にはラップトップ「M353」も投入。しかし富士通がFMRからDOS/VのFMVシリーズへ移行したのに伴い、パナソニックもFMR互換事業を終了した。なお、1993年にはパナソニック初のDOS/Vパソコン「Panacom V21P(愛称JET)」を発売し、国内ビジネスパソコンはDOS/Vに一本化された。
MSXとユニークな試み
1983年、松下電器産業のPC開発部はMSX仕様のホームパソコン「CF-2000」を発売。ニュースリリースで「MSXパソコンを本命と考え、家電量販店を中心に推進」と宣言し、家電販売ルートを活用。1985年にはMSX2対応、1986年にはMSX2+対応「FS-A1」をパナソニックブランドで発売。1990年10月には16ビットMSXturboR準拠の「FS-A1ST」を投入。国内16社が賛同したMSX規格の中で、パナソニックは唯一最後まで製品を出し続けたメーカーとなった。
1988年には国産OS BTRON仕様準拠のOSを開発し、Panacom M-500ベースのハードウェアで動作。1989年にはBeOS搭載のUNIXワークステーション、1994年3月には3DO規格のゲーム専用機「3DO REAL」を発売。1994年5月にはマルチメディアパソコン「WOODY CF-V31」を発表。14型モニター、CD-ROM、音声多重TVチューナー、ドームスピーカーを一体化したAVパソコンで、「マルチメディアをつっつこう」をキャッチフレーズに、ウッディー・ウッドペッカーをキャラクターに起用。1995年にはPDドライブ内蔵「CF-V32D」や「WOODY note」、1996年にはタワー型「WOODY PD」を追加した。
1993年3月にはパソコン周辺機器シリーズ「P3(パナソニック ペリフェラル プロダクツ)」を展開。松下寿電子工業、九州松下電器、松下通信工業など10事業の製品を集約し、HDD、ディスプレイ、CD-ROMドライブ、プリンタ、モデムなどをDOS/V、PC-9800、Mac向けにラインアップした。
レッツノートの源流とThinkPadの血
レッツノートの流れは1983年発足の特別プロジェクト室に遡る。日本IBMからの受託生産を主軸とし、海外メーカーのIBM互換機やサン・マイクロシステムズのSPARC互換ワークステーションも生産。1997年にはPHS内蔵パーソナルコミュニケーター「ピノキオ」を発売。同年2月に設立されたパナソニックコンピュータカンパニーは、特別プロジェクト室の技術者を異動させ、台湾ODMを活用したAVノート「HITO」シリーズやトヨタとの異業種プロジェクト「WiLL PC」を手がけた。
2002年2月、ITプロダクツ事業部が発足し、パソコン事業はレッツノートとタフブックに絞られた。2017年4月の社内カンパニー制でコネクティッドソリューションズ社、2022年4月の持株会社制でパナソニックコネクトが事業を継承している。
型番からも組織の変遷が見える。初代レッツノート「AL-N1」は情報周辺機器事業部の型番「AL」だったが、1997年の統合で情報機器事業部の「CF」に移行。タフパッドの一部「FZ」型番はパナソニックシステムネットワークス由来だ。ただし、レッツノート前身のPRONOTE Jet miniは特別プロジェクト室開発ながら「CF-11DS32」として発売。これは企業向けブランド「PRONOTE Jet」が情報機器事業部の管轄だったこと、販売ルートを同事業部に依存していたことによる。
特筆すべきは、レッツノートにThinkPadの血が流れている点だ。特別プロジェクト室は長年日本IBMのOEM生産を手がけ、ThinkPadの設計・評価手法や耐久試験のノウハウが蓄積されていた。守口工場にはThinkPad開発で使われた試験設備がそのまま活用され、開発工程でIBMの専門用語が使われていたという証言もある。関係者は「レッツノートにはThinkPadの血が流れている」と比喩する。
タフブックの誕生へ
次回はタフブックに焦点を当てる。第1号機は1996年9月発売の「CF-25」。情報機器事業部が担当し、IBM互換機OEMの収束の中で英国の大型案件が源流となった。



