元大関・小錦八十吉が、1982年6月18日に単身で来日し、高砂部屋に入門した。当時18歳だった小錦は、親の反対を押し切って成田空港行きの飛行機に乗り込んだ。Tシャツに、サモアの民族衣装「ラバラバ」と呼ばれるパレオのような衣装を身にまとっていた。しかし、到着した成田空港にはマスコミも誰もおらず、出迎えはなかった。
初めての日本、高砂部屋へ
成田空港からはリムジンバスで箱崎の東京シティエアターミナルへ向かった。見知らぬ国に来た18歳の少年は驚くばかりで、初めて見た日本は「都会だなあ」という印象だったという。高見山関と落ち合い、当時東京・浅草橋にあった高砂部屋へ向かった。そこで出会ったのは、眉毛の濃いおじさんで、後に師匠となる元横綱・朝潮の高砂親方だった。
朝潮は鹿児島県の徳之島出身で、59年春場所後に第46代横綱に昇進。栃錦、初代若乃花の「栃若時代」に活躍し、トレードマークの胸毛から「毛ガニ」とも呼ばれて人気を博した。引退後の71年に「高砂」の名跡を襲名し、5代目師匠として名門部屋を継承していた。
名古屋場所直前の入門、稽古開始
名古屋場所の番付発表直前で、既に力士らは名古屋に移動して誰もいなかった。高見山関がハワイからスカウトした新弟子として報道陣に披露され、親方は「久しぶりの大物」と紹介した。その後、親方と一緒に新幹線で名古屋へ向かった。
名古屋場所の高砂部屋の宿舎はお寺を借りていた。梅雨時の名古屋は蒸し暑く、ハワイとは大違いだった。幕下以下の力士たちの寝床である大部屋に放り込まれ、相撲部屋生活が始まった。翌日から朝稽古に参加すると告げられた。
翌朝、稽古場に連れて行かれたが、何が何だか分からなかった。言葉が分からず、土俵も初めて見た。先輩力士に手伝ってもらい、裸になってまわしの締め方から教わった。見よう見まねで、四股の踏み方などすべてをまねしてやるしかなかった。ただ、部屋には高見山関がおり、5歳年上で同じハワイ出身の若高見さんという兄弟子もいたため、言葉を少し訳してもらうなど助けられた。食事面ではカルチャーショックはなく、ハワイでは魚をよく食べ、生の刺し身も大好きで、ちゃんこ鍋も全く問題なかった。
新弟子検査で体重計2つ使用
当時は外国出身力士が来日後に研修を受けることもなく、6月29日に名古屋市内の病院で新弟子検査を受検した。身長1メートル84、体重は175キロで一発合格。体重計の目盛りが振り切れてしまい、二つの体重計に乗って計測された。



