昭和20年8月15日正午、終戦を告げた昭和天皇の玉音放送が流れた際、全国の天候はどうだったのか。デジタルアーカイブされた「気象月表原簿」などを分析したところ、141地点のうち42地点で気温が30度を超えていた。晴れのイメージが強い一方で、「曇」が53地点、「雨」も4地点あった。
気象月表原簿の分析で判明
気象月表原簿は、気象庁の前身である中央気象台が作成し、天気や気温などの気象データを時間ごとに詳細に記録している。国立情報学研究所(NII)の北本朝展教授がインターネットで公開している186地点の原簿を分析した結果、141地点の8月15日正午の天気が判明した。戦局悪化で欠測となった地点や、空襲による計器への影響が記された地点もあり、当時の窮状が浮かび上がる。
正午時点で、東京は30.9度、大阪は32.5度と真夏日だったが、いずれも「曇」と記録されている。「快晴」を0とした10段階の雲量はそれぞれ10と8で、東京の上空は一面雲で覆われていたとみられる。名古屋は「晴」で気温34度を記録。北海道は全体的に雲が多く、札幌は23.2度、根室は14.9度と涼しかった。富士山は9.5度、最も冷涼だったのは佐幌岳(北海道)で7.6度だった。
局地的な雨の記録
雨が降っていた地域もあった。北海道の小樽、苫小牧、鳥取の大山(中腹)、沖縄の宮古島は「雨」と記録され、4地点とも0.1mmに達しない弱雨だったとみられる。気象庁のサイトでは廃止された大山測候所の中腹分室のデータは閲覧できず、小樽などは7〜14時の降水という形でまとめられており、正午の天候はわからない。気象月表原簿の「記事詳記」を分析して、正午に雨が降っていたことが明らかになった。
現在、苫小牧を管轄する室蘭地方気象台の担当者は「当時は職員が目視で天気の確認を行っていた。降水量の計測の仕方も現在とは異なるが、気象月表原簿にある通り、弱い雨が降ったことは確かだと考えられる」と指摘。「北海道では、全道とは異なり小樽と苫小牧で雨が降る、というような局地的な天気は今でもみられる」と話した。
原爆投下後の観測継続
原爆が投下された広島では、8月6日の記事詳記に「火災雷」と記され、長崎では8月9日の記録に「火災」「KN(積乱雲)発生」と記されていた。8月15日正午はそれぞれ30.6度と30.3度で「晴」の記録が残っている。原爆投下後も24時間体制で観測が続けられていた。
熊本の気象月表原簿には、戦争末期に「空襲に依り焼夷弾落下す」「火災による影響ありと思はる」と被害状況の記載もあった。それでも休まず記録され、8月15日正午は31.3度の「快晴」で終戦を迎えた。現在、天気が分からなくなった地点もある。新島(東京)は「月表原簿は軍命令によって焼却」、田名部(青森)は「応召者続出」「気象観測を中止」といった記録が残されていた。中国大陸の7地点は20年7月以降、観測が中止されていた。
沖縄気象台が保管する那覇の気象月表原簿は20年1月までで、2月以降は観測中止となっている。地域防災推進課の担当者は「沖縄戦で(73人という)かなり多くの職員が殉職したと聞いている。毎年6月23日の『慰霊の日』には、当時の気象台職員などが集まり、そうした歴史について聞く機会がある」と話した。沖縄気象台の担当者は「壕に避難しながらも、それぞれ観測を続けた。未来永劫、観測記録を残すという〝測候所精神〟のようなものがあったのではないか。データが残っているのは奇跡だ」と振り返る。



