決闘騒ぎから半世紀、朝鮮学校と日本人教員の対話が始まった
決闘騒ぎから半世紀、朝鮮学校と日本人教員の対話

1970年12月、広島県海田町で日本人高校生と朝鮮学校生による集団決闘騒ぎが起きた。地元紙・中国新聞が「あわや集団決闘 高校生と朝鮮学校生」と報じたこの事件をきっかけに、教員有志が動き出した。朝鮮学校と日本人高校の教員約50人が向き合う話し合いが持たれたのだ。

「いよいよ大事となった」と教員有志が動く

「7校連合」と呼ばれた日本人高校生らの中心は、広島県海田町の広島電機大学付属高校(電高)の生徒たちだった。近くの朝鮮学校の生徒らとの小競り合いは、以前から教員らを悩ませていたという。

事態を憂慮した教員の有志は、朝鮮学校に電話をかけ、教員同士が電高に集まって話し合うことになった。朝鮮学校側は校長を含むほぼ全員が参加し、電高側も教員の半数ほどが集まった。

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自己紹介で明かされた「本名」

張りつめた空気のなか、教室に生徒の机を並べ、二十数人ずつが向き合った。まずは自己紹介から始まった。朝鮮学校の教員たちが一人ずつ名乗り、電高の教員も続く。

順番が回ってきた大林載孝(のりたか)(91)があいさつした。

「私は大林といいますが、本名は趙載孝(チョチェホ)。在日朝鮮人です」

この言葉に、朝鮮学校の教員らが一斉に驚いた表情に変わった。当時はいま以上に在日への就職差別が厳しく、日本人社会に溶け込むために本名を隠す在日朝鮮人が多かった時代だった。

半世紀前の対話が問いかけるもの

この話し合いは、その後も続く朝鮮学校と日本人教員の交流の始まりとなった。連載初回で紹介されたように、ある高校で韓国・朝鮮語を教える先生は、日本の教員免許に加え、朝鮮民主主義人民共和国の教員資格も持つ珍しい経歴を持つ。その背景には、こうした半世紀前の対話があった。

連載3回目は15日配信予定で、朝鮮語授業の講師を務めた在日コリアンたちの思いを伝える。

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