ピカッと光った後、空が真っ黒になった――。奈良県香芝市の田福愛子さん(90)は、1945年8月6日、疎開先の広島県観音村(現・広島市佐伯区、広島県廿日市市)で、原爆投下の瞬間を迎えた。その日、広島市内から黒く焦げた人たちが大勢運び込まれるのを目にした。焼けただれた皮膚、飛び出た眼球。悲惨な光景は幼い瞳にしっかりと焼き付き、81年を経ても忘れることはない。8月1日に奈良県葛城市内でその体験を語る。
「あんな青空は今でも見たことがない」
香川県生まれの田福さんは、父親の仕事の関係で広島市内へ転居。さらに45年4月に両親と妹の4人で、観音村に疎開した。当時9歳、国民学校の3年生だった。同年8月6日午前8時15分、授業中に外が光り、その数秒後にゴロゴロと大きな音がした。それまでの抜けるような青い空が、見る見る黒くなり、強風とともに、焼け焦げた大量の紙のようなものが教室内に吹き込んできた。校庭に全校児童が集められ、校長先生から「B29に見られないようにして帰りなさい」と指示された。
帰宅すると、母親から「広島から助かりそうな人が農協横にトラックで運ばれてくる。お父ちゃんがいるかもしれないから、待っていなさい」と言われた。父親はいつものように、列車で広島市内に通勤した後だった。トラックの荷台に乗せられてきた人のほとんどが真っ黒に焼け焦げ、「手足があるからかろうじて人だとわかる」状態。田福さんはトラックから降ろされる人を、「お父ちゃんかもしれない」と、凝視したが、見つからなかった。
父はこうもり傘で顔を守った
数日後、父親は徒歩で帰ってきた。服はボロボロ、すすだらけで顔はわからないほどだった。通勤途中の駅で、日差しが強かったため、こうもり傘を広げた瞬間、強い光と爆風に襲われたという。傘のおかげで顔は無事だったが、手と首が焼けた。母親に「広島から来た人の体には毒が入っているから、流し出さないといけない」と言われ、田福さんは村の人に頼んでドクダミを集め、茶をつくるのを手伝った。運び込まれたものの亡くなった人たちは、掘った穴に置かれ、ガソリンで焼かれた。周囲に強いにおいが漂った。
田福さんは「怖いというより、何が何だかわからなかった。敵の攻撃や爆弾とわかるのはもっと後になってから。疎開前の広島は空襲も怖いこともなかった。それがピカドンで一瞬にして全てが破壊された」と振り返る。終戦後も父親は原爆症で長い間苦しんだ。親族や知人も原爆で直接亡くなったり、後に結婚差別にあったりしたという。「人の知恵を戦いに使ってはならない。私は被爆手帳は持っていないが、あの時に見たことは『むごい』という言葉では表せない。戦争はしてはならない、やらせてはならない」と田福さんは強く思う。
8月1日に葛城市で講演
田福さんの体験は8月1日午後2時から、葛城市染野のゆうあいステーションで開かれる「第15回戦争体験を聞く会」(「葛城・戦争体験を聞く会」実行委員会主催)で、講演される。講演前には原爆をテーマにした人形アニメを上映。広島の高校生が被爆者から聞き取って描いた絵画や、広島・長崎の原爆と現在の核兵器に関する資料、戦争遺品なども展示する。実行委代表の岩下美佐子さん(77)は「田福さんが見たこと、聞いたこと、感じたにおいの全てが、当事者だからこその貴重な証言。ぜひ多くの人に聞いてもらいたい」と話す。問い合わせは岩下さん(080・6170・5490)。



