和歌山大空襲81年、家も財産も失った人々の苦難 生存者が語る
和歌山大空襲81年 生存者が語る苦難と平和への願い

1945年7月9日深夜から10日未明にかけて、和歌山市は米軍による大規模な空襲に見舞われ、1100人以上の命が奪われた。あの地獄から81年、当時9歳だった中村忠生さん(90)が、焼け野原と化した街の光景と、失われたものへの思いを語った。

空襲の記憶――山の向こうが真っ赤に染まった

中村さんは和歌山市西釘貫丁で生まれ、父親が銅合金の鋳物工場を営んでいた。戦局が激化すると、母親とともに紀の川市(当時は奥安楽川村)へ疎開。カメラ好きの叔父が撮影した和歌山城の写真や家族旅行のアルバムを、疎開先に持ち込んだという。

1945年に入ると、大阪や神戸への空襲が頻発し、上空を飛ぶB29爆撃機を目にする機会も増えた。7月9日夜の記憶はおぼろげだが、山の向こうが真っ赤に染まる異様な光景は今も目に焼き付いている。「ついに和歌山がやられた」と直感した。

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焼け跡の現実――焦げ臭い街、全焼した自宅

翌朝、母親と鉄道で工場と自宅の様子を見に行った。紀伊中ノ島駅に降り立つと、鼻を突く焦げ臭い匂いが街中に充満していた。自宅は全焼。一方、工場は父親と従業員が一晩中ポンプ式放水器で水をかけ続け、奇跡的に守り抜いた。

市内には家を失った人が溢れていた。工場では焼け出された数世帯を受け入れ、工場の片隅で生活する人々、空襲で両親を亡くした従業員らの姿を中村さんは今も忘れない。「あの人たちは家はおろか、鍋や食器も含めて、家財道具を何もかも失った。本当に苦労したと思う」と振り返る。

失われた城と再建――人生を見守り続けたシンボル

和歌山城が焼け落ちたことは空襲直後のラジオで知った。「愛着のあった城がなくなってしまい、例えようのない悲しみを覚えた」と中村さん。戦後、中学校の帰り道に瓦や焼けた木材が散乱する天守閣跡で遊んだという。1958年、天守閣は鉄筋コンクリート造で再建。復元された城の姿に「やっと元通りになった」と目頭を熱くした。

大学卒業後は父の工場を継ぎ、1964年に妻・茂子さんと結婚。54歳で家業に区切りをつけた後は、和歌山城の観光ガイドを約15年務めた。観光客や修学旅行生と城で積み重ねた思い出は尽きない。「城は厳しい時期も豊かで平和な時期も、自分の人生を見守り続けてきてくれた」と語る。

平和への願い――記憶を伝える展示

海外では今も紛争による犠牲者が絶えず、日本周辺の安全保障環境も厳しさを増す。中村さんは「大切な城が再び戦火に包まれることのないよう、この平和を何十年も何百年も、守り抜いてほしい」と願う。

和歌山市立博物館では、8月23日までホール展「和歌山大空襲の記憶」を開催。空襲体験者9人の証言や空襲直後の市街地写真、死亡通知書、B29の部品などを展示。8月1日には戦争体験者3人を招いた講演会も予定されている。

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