熊本地震で家を失った被災者の中には、81年前の戦争や過去の震災で命を落としかけた人がいる。再び試練に直面したいま、思うことは。
熊本大空襲と向き合った少女時代
敗戦間近の1945年7月1日深夜。軍都・熊本市は米軍のB29爆撃機154機の集中攻撃を受け、市街の約2割が焼失し、数百人が亡くなった。熊本大空襲だ。
当時、小学校3年だった境惇子さん(89)は、熊本市中央区の自宅にいた。1、2歳だった妹を、炎から守るためにぬらした布でくるみ、背負った。妹はパニックで泣きわめいた。構わず近くの防空壕に走り込んだ。目の前の橋が、中央から焼け落ちていった。
翌朝、我が家は黒こげの柱と、コンクリートの基礎しか残っていなかった。地面に埋めておいた大事な靴や服も焼けていた。
生きのびたうれしさより、物不足の中、宝物が消えてしまったことの方が悲しかった。
10年前の地震との違い
親の実家がある(現在の)熊本県宇城市に移り、戦後は、特別養護老人ホームの職員として、長く働いた。
7月28日の地震の時は、自宅にいた。
10年前の地震では、障子が外れた程度だったが、今回は玄関も、柱も壊れ、タンスも冷蔵庫も倒れた。家自体がつぶれるところだった。
どうにか外には出られたものの、住める状態ではない。避難所に行くしかなかった。
「生かさるるだけ」生きる
すでに卒寿。仮に再建を始めても、完成する前にお迎えが来てしまう、と諦めた。そもそも、そんなお金はない。
だからといって子どもの家に行くつもりもない。2人いるが、それぞれに生活がある。1人で気ままに生きてきたから、いまさら誰かとペースを合わせて暮らすのは無理だ。
そして、地元を離れるつもりもない。2次避難も、仮設住宅も、できればゴメンだ。長年住んだ自宅のそばにいたい。いま、自力で近くの空き家を探す。
「こんな目に遭うなんて、長生きし過ぎちゃったね」
苦笑いしながらも毎朝、避難所の駐車場をてくてく、千数百歩ウォーキングする。「戦争と地震とくぐって、生かさるるだけ、生きるばい。体が続く限り生きねばね。しょんなかよ」



