未曽有の水害により愛媛県内で災害関連死を含む33人の命が奪われた西日本豪雨から、7日で8年となった。宇和島、西予、大洲の3市では献花台が設けられ、遺族や住民らが犠牲者に花を手向けた。
西予市:復興公園で献花
6人が犠牲になった西予市では、野村町の肱川沿いにある復興公園「どすこいパーク」に献花台が設置された。午前8時半に黙とうした後、管家一夫市長は「復興・復旧は一歩ずつ進み、安心して生活できる環境が整ってきた。災害の記憶を次の世代につないでいきたい」と述べた。
同市立野村小6年の女児(12)は、当時4歳で自宅1階が浸水し親戚宅に避難した経験を「何となく覚えている」と振り返り、5年生からの授業で語り部の話を聞いたり被災箇所を歩いたりして防災の大切さを学んだという。「事前に防災バッグを準備し、家族と避難場所を話し合うことで、パニックにならず冷静に行動したい。復興ソング『のむらのうた』を歌い続けたい」と語った。
夫が神主を務める三嶋神社が被災した和気芳恵さん(70)は、市立野村中に避難後、神社に戻ると社務所が流され、中殿と拝殿が全壊していたという。「信じられない思いだったが、全国のボランティアに助けられ、大きな心の支えになった。感謝を伝えたい」と述べ、犠牲者のひ孫が大きくなった様子を伝え、「安らかにお眠りください」と花を手向けた。
宇和島市:吉田町で13人が犠牲
宇和島市では吉田町で13人が犠牲となり、市吉田支所に半旗が掲げられ、前の広場の「豪雨災害の碑」に市民が献花して手を合わせた。正午には防災行政無線のサイレンが鳴り響き、各所で1分間の黙とうがささげられた。
友人を亡くし自宅が全壊した清家秀代さん(80)は、「自宅前の山が崩れ、一帯が土砂で流された。2階にいて助かったが、夫は柱の間に挟まれて身動きが取れなかった。あの日を思い出すのは嫌だ」と語る。数十年近い付き合いの友人を亡くした悲しみから、これまで献花に来られなかったが、「もう8年もたったから、さすがに行かないといけないと思って。『しばらく来られなくてごめんね』と声をかけた」と述べた。
妹と姪、姪の子どもの3人を亡くした岡山つま子さん(78)は、「小学生だった姪の子が前日、『雨が降ってるけど大丈夫』と心配して電話をくれた。それが最後の会話。あの声が今でも耳に残っている」と涙ながらに語る。妹たちは土石流に流され、救出作業を見守るしかできなかった。「助けてやれなくて申し訳ない。どうにかならなかったかと今でも考えてしまう。もう8年がたったけど、1年でも2年でも、つらい思いは同じです」と述べた。
大洲市:5人が犠牲に
5人が亡くなった大洲市では、市役所に献花台が置かれ、午前9時半に防災行政無線で黙とうを呼びかけた。二宮隆久市長は「教訓を風化させることなく後世に語り継ぐとともに、大規模災害が今後起こりうることを想定して備えないといけない」と語った。
大洲消防署長として救助に従事した後藤茂さん(62)は、肱川が氾濫する前日の夜、大量の雨に危険を感じ全職員を集めたという。当日は土砂崩れの救助中に「市内が冠水している」との連絡が入り、前例のない十数件の救助要請に「どれを優先すべきか大変苦悩した」と振り返る。「少ない人数で職員は一生懸命対応したが、多くの人が被災した。今後、被害に遭う人をできる限り少なくしたい」との思いで花を手向けた。8年が経過し堤防の整備は進んだが、「これからも水害への備えは万全を期したい」と語った。
自宅が2階まで浸水した永見節子さん(85)は、当時肱川のそばに住んでいた。「台所にいると玄関の方から水の音がした。長靴を履いて外に出ると水が迫り、一人では歩けず、消防団員に支えられて公民館に避難した」と振り返る。水が引いた後、自宅に戻ると1階のシャッターやガラスがすべて流されていた。「今でも当時のことを思い出すと涙が出る。地区のみんながばらばらになり、寂しい」と語った。



