柴田勝家を見限り秀吉に降った前田利家が加賀百万石の礎を築けた理由
柴田勝家を見限り秀吉に降った前田利家が加賀百万石を築けた理由

加賀百万石の礎を築いた前田利家は、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を見限り、羽柴秀吉のもとへ降った。それなのに、なぜ秀吉は一度敵対した利家を許し、重用したのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く。

勝家の敗北につながった“利家の離反”

天正11(1583)年4月22日、秀吉は越前国府中(福井県越前市)に至り、前田利家、徳山秀現、不破直光らが降参した。一つひとつ攻め殺すべきだったが、勝家を討つことを先決としたので赦免した。羽柴秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いの軍記物『柴田合戦記』の一節だ。前田利家、徳山秀現、不破直光(または勝光ともいう)ら柴田勝家軍の諸将が、相次いで秀吉に降伏した様子を伝えている。

ギリギリまで悩んでの決断だった

4月20日に戦端が開かれた賤ヶ岳の戦いは、柴田勢の劣勢が明らかになると離脱者が相次ぎ、21日には総崩れとなった。『柴田合戦記』が利家の降伏を22日と書いているのを見ると、利家は21日に戦線を離れ、翌日に白旗をあげたことになるのだろう。

Pickt横長バナー — Telegram用の共同買い物リストアプリ

ただし『本藩歴譜』(金沢市史所収)は離脱を「撤収」としており、また江戸後期になって成立した『越登賀三州志』は、前田譜代の家臣たちが「撤収」の殿しんがりを務め、討ち死にしたとも記している。これを信じるなら、利家は多くの将兵が戦死するリスクにさらされながら撤退し、かつ人質となった娘の安否も気遣い、柴田・羽柴のどちらに与するか、ギリギリまで決断できずにいたと見ることもできる。

降伏か、裏切りか、仕方なかったのか

前田利家の戦線離脱は、柴田勝家の敗北につながる大きな要因のひとつになったといわれている。もっとも『柴田合戦記』は秀吉の文官だった大村由己が著しているため、秀吉に都合の良い内容を書き連ねる傾向が強い。それでも似た内容を書き残した文献が、他にもある。例えば前田家の家臣・村井重頼の覚書などだ。

堀秀政が利家に秀吉との和議を斡旋したところ、利家は娘の摩阿姫が勝家の居城・北ノ庄城に人質として留め置かれていたため、難色を示した。だが、姫の侍女の機転によって城を脱出したとの報告を聞き、秀吉に降ることを承諾した――と記されている。利家が秀吉の軍門に下った経緯は、真偽が定かとは言えないまでも複数の文献が書き残しているのである。

秀吉が利用しようとした利家の高い能力

秀吉は、利家の持つ高い能力を利用しようとした。利家は、柴田勝家の家臣ではなく、織田信長の直臣としての立場を持っていた。そのため、秀吉にとって利家は、単なる敵将ではなく、利用価値のある人物だったのである。

利家は、秀吉の信頼を得るために、結果を出し続けた。その結果、加賀百万石の礎を築くことができたのである。

Pickt記事後バナー — 家族イラスト付きの共同買い物リストアプリ