沖縄県糸満市の平和祈念公園にある「平和の礎」に、2026年、新たに95人の名前が刻まれた。その中には、終戦から約1年後の1946年8月に疎開先の台湾で亡くなった與儀ナヘさん(当時65歳)の名もある。孫の小林夏枝さん(91)は6月25日、刻銘板の前で涙をぬぐいながら「おばあちゃんは戦場で亡くなっていないけれど、戦争のせいで命を落とした。戦没者として認められてよかった」と語った。
疎開の航路で命の危機
1944年9月、那覇市に住んでいた小林さん(当時10歳)は、海軍に召集された父を除く母、きょうだい、祖母のナヘさんと共に、親族がいる台湾北部へ疎開するため船に乗った。夜中にサイレンが鳴り、デッキに上がると近くの艦船が攻撃を受け、炎が上がった。家族で抱き合い「神様、助けて」と祈ったという。
終戦後も続く苦難
台湾に到着後も空襲が続き、ナヘさんは孫を背負い、手を引いて逃げ、身を挺して家族を守った。1945年夏に終戦を迎えたが、沖縄出身者の引き揚げは遅れた。一家は台湾北部のコンクリート倉庫に身を寄せ、旧日本兵から配給される芋ご飯やおかゆは量が足りず、ナヘさんは自分の分を孫に分け与え、やせ細っていった。
最期の言葉と遺骨
衰弱したナヘさんは「バナナが食べたい」「お父さんに会ったら、『会いたかった』と伝えて」と告げ、数日後の1946年8月8日に息を引き取った。家族は遺体を着物で包み、台湾人がリヤカーで火葬場へ運んだ。一家が沖縄に戻ったのは約1か月後で、再会を喜ぶ父にナヘさんの死と遺言を伝えた。小林さんは「あと1か月早ければ、おばあちゃんもお父さんに会えたのに」と悔しさをにじませた。
80年越しの刻銘
小林さんはその後、米国で暮らし、2021年に夫の死を機に沖縄へ帰郷。ナヘさんの名が平和の礎にないことを知り、家族と共に疎開した船の名前や航海記録を調べ、申請にこぎ着けた。礎には現在、沖縄戦の犠牲者24万2659人の名前が刻まれ、追加刻銘開始から30年で約9000人が加わった。戦争犠牲者を広く認める理念の下、今年は終戦後に国外で亡くなった95人が新たに刻まれた。小林さんは刻銘板の前に菊の花とバナナを供え、「戦場じゃなくても、終戦後であっても、あの戦争で苦しんだ人がたくさんいることを多くの人に知ってほしい」と語った。



