経営史学者で系図研究者の菊地浩之氏は、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる本能寺の変後の通説に疑問を投げかける。本能寺の変の直後、中国地方にいた羽柴秀吉が驚くべき速さで京都に戻り、明智光秀を山崎の戦いで破ったとされてきたが、近年発見された秀吉の書状により、この通説が覆される可能性が出てきた。
新発見の書状が示す秀吉の遅参
山崎の戦いの当日である天正10年(1582年)6月13日、秀吉が富田(現在の大阪府高槻市)で書いたとみられる書状が発見され、注目を集めている。この書状の分析から、馬部隆弘氏は「山崎の合戦に羽柴秀吉が遅参していた」という新説を唱えた。もしこの説が正しければ、秀吉が光秀を討ったという従来の理解は誤りとなり、代わりに光秀軍を打ち破った別の武将が存在することになる。
『太閤記』によれば、山崎の戦いにおける光秀軍は1万6000兵、対する羽柴軍の内訳は以下の通りである(『本能寺の変 山崎の戦』より)。
- 羽柴秀吉:2万
- 池田恒興:5000
- 織田信孝:4000
- 丹羽長秀:3000
- 中川清秀:2500
- 高山右近:2000
従来、秀吉が最大の軍勢を率いて勝利したからこそ、織田家中で主導権を握ったと説明されてきた。しかし、秀吉が間に合わなかったとすれば、最も多くの兵を率いていた池田恒興こそが光秀を破った最大の功労者となる。菊地氏は「信長死後の政局動向は、池田恒興から見た視点が必要だ」と指摘する。
池田恒興の出自と信長との関係
池田勝三郎恒興(1536~1584)は、織田信長の乳兄弟であり、幼少期から信長の父・信秀および信長に仕えた。恒興の母は後に信秀の子を産んでおり、その縁も深い。諱を信輝とする文献もあるが、菊地氏は「信長と次男・輝政から創った偽名であろう」と述べている。
信長は恒興を非常に可愛がり、信長の異母兄・織田秀俊が死去すると、その未亡人との結婚を命じた。未亡人は知多半島有数の国衆・荒尾家の出身であり、この結婚により恒興は荒尾家を与力として従えることができ、大きな軍勢を率いる基盤を得た。
天正6年(1578年)11月、摂津有岡城の荒木村重が謀反を起こすと、恒興は支城の花隈城を陥落させ、その功績により摂津を与えられた。天正10年(1582年)5月には羽柴秀吉の中国遠征の援軍を命じられるが、同年6月2日の本能寺の変により状況は一変、6月13日の山崎の戦いに参戦することとなる。
清須会議での重臣扱い
天正8年(1580年)、信長が佐久間信盛を追放した際に書かれた折檻状の中で、信長は「一、丹波は明智光秀が平定し、天下に面白をほどこした。羽柴秀吉は数カ国で比類ない功績を上げた。また池田恒興は小禄ながら短期間で花熊(花隈)を攻略し、これも天下の称賛を得た」(『現代語訳 信長公記』)と述べており、恒興は秀吉や光秀より一段下がる評価であった。
ところが、本能寺の変後の清須会議では、池田恒興は柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉とともに「宿老」待遇で参加している。菊地氏は「秀吉遅参説によれば、池田恒興こそ山崎の合戦で光秀を破った功労者だから、参加が認められたのだろう」と推測する。
恒興のその後の動向と子孫
山崎の戦い以降、秀吉と恒興のタッグは続く。小牧・長久手の戦いでは、家康軍と対峙したが、恒興は戦死する。しかし、その息子たちは後に重要な役割を果たす。恒興の三男は秀吉の養子となったが、後に実家に戻る。関ヶ原の戦いでは、恒興の息子が東軍に属し、家康側で戦った。
菊地氏は「池田恒興の視点から本能寺の変後の政局を再検討する必要がある」と強調し、新発見の書状が歴史理解に一石を投じていると結論づけている。



