倉本聰さん死去、91歳 富良野で住民やファンが悼む
倉本聰さん死去、91歳 富良野で住民やファンが悼む

テレビドラマ「北の国から」などで知られる脚本家の倉本聰さんが18日、91歳で死去した。創作の拠点であり作品の舞台となった北海道富良野市では、交流のあった住民やファンが北の自然を愛した巨匠の死を悼んでいる。

家族に見守られ、眠るように

倉本さんの著作物を管理する一般財団法人「倉本財団」の専務理事兼事務局長・谷山一也さん(55)によると、倉本さんは富良野市内の自宅で家族に見守られながら、眠るように息を引き取ったという。

谷山さんは、倉本さんが亡くなる1週間ほど前まで仕事の打ち合わせをしていたといい、「まだまだお元気でいらっしゃると思っていた。先生が残された作品を含め、周りのメンバーたちと倉本聰イズムを守っていきたい」と語る。

財団によると、最後に公の場に姿を見せたのは8月29日、自身の作品に込めた思いや秘話をファンに語る「富良野やすらぎの刻(とき) 倉本聰プライベートライブラリー」だった。2017年から同市でほぼ月1回開催しており、倉本さんが90回目となるこの日で「一つの区切り」とすることを明かすと、約200人のファンからはどよめきが上がり、涙を流す人もいたという。

ホームページに寄せたメッセージで、倉本さんは自身の墓碑に参加者の名を刻みたいとして、協力を呼びかけていた。会場の富良野演劇工場では今月から参加者の記帳を受け付けており、先週末時点で約50人分が集まったという。

ロケ地にファンの弔問

倉本さんは1977年に富良野市へ移り住み、厳しい自然の中でたくましく生きる家族の絆を描いた「北の国から」を執筆。81年から放送が始まると大きな感動を呼び、シリーズ化された。シリーズ最終の「北の国から 2002遺言」が放送された2002年度には、同市への観光入り込み数は過去最高の約249万人を記録した。

同市郊外の麓郷(ろくごう)地区に保存されている「拾って来た家」のロケセットには、訃報が流れた28日も多くのファンが訪れた。ロケ地などを回ろうと静岡県から訪れたパート従業員の女性(52)は「本当にショックで、まさかという感じ。純や蛍と同年代なので、成長や親になる気持ちを自分と照らし合わせながら作品を見てきた。一つの時代が終わってしまった気がする」と話した。

倉本さんの行きつけで「北の国から」のロケ地にもなった飲食店「くまげら」の男性店主(84)は、ドラマをきっかけに富良野への移住者が増えたといい、「文化や芸術で人を呼び込めるんだと思った」と放送当時を振り返る。「倉本さんは富良野にとっての大恩人。多くの人の感性に訴える作品を届けたからこそ、富良野が有名になったのだと思う。ここまで富良野に尽くしてくれた感謝を込めて『お疲れさん』と言いたい」と悼んだ。

自然保護への情熱

倉本さんは私財を投じて1984年に「富良野塾」を設立し、脚本家や俳優の養成にも力を入れた。塾の10期生として2年間の養成所生活を送った富良野市の脚本家、太田竜介さん(58)は「先生の指導はとてつもなく厳しく、演技ではセリフとセリフの間(ま)や呼吸にこだわっていた」と振り返る。人間観察にたけていたのが印象的といい、「人の癖をよく見ていたからこそ、あれだけ魅力的な作品が書けたのだと思う」と語った。

倉本さんは演劇とともに、自然保護にも情熱を注いだ。2005年に観光教育を行う「富良野自然塾」を創設。塾長として富良野プリンスホテルのゴルフ場跡地を借り受け、森に戻す活動などに取り組んでいた。新富良野プリンスホテルは、森の中のショッピングエリア「ニングルテラス」やバーについて倉本さんからアドバイスを受けるなど、ゆかりが深い。伊賀裕治総支配人(61)は「突然の訃報で驚いている。先生からの財産をこれからも守っていきたい」としのんだ。

倉本さんは地域や演劇への功績が認められ、03年には富良野市の名誉市民に選ばれた。北猛俊市長は「映像を通じて富良野の自然や景観、市民の人柄を全国に発信していただいた。大変感謝している。ご冥福(めいふく)をお祈りしたい」と語った。