1945年8月6日、世界で初めて広島に投下された原爆は、同年末までに推計約14万人の命を奪った。「死亡率ほぼ100%」とされる爆心地から半径500メートル以内で生き残った一人が、樫野三郎さんだ。軍隊に召集されて広島市に赴任しており、原爆投下時は広島城近くの兵舎にいて奇跡的に生き残ったが、その体験は2007年に95歳で亡くなるまで家族にほぼ語らなかった。死後、長女の澤田睦美さん(89)(岐阜市)が見つけた手記を頼りに、三郎さんが「近距離被爆」からいかに生還したかをたどる。
広島へ、家族も諦めていた生還の知らせ
三郎さんは岡山市が大規模な空襲に遭う4日前の1945年6月25日、岡山市に妻と4人の娘を残して広島市に向かった。先に中国に出征して除隊しており、2度目の召集だった。今度の任地は広島市で、部隊で新兵の教官を務めた。
岡山空襲を生き延びて岡山県落合村(現・高梁市)に移っていた家族は、8月6日朝に広島に新型爆弾が投下されたと聞き、三郎さんの死を覚悟した。妻・佐倭さんの落胆ぶりを、当時、国民学校初等科2年生だった睦美さんは「張りつめていた気持ちが一気にしぼんだようで、見ていて痛々しかった」と振り返る。
8月が終わる頃、睦美さんは一通のはがきを受け取った。三郎さんからだった。「元気でいる。心配いらぬ。秋頃には帰れる予定」。電報のような文面を読むとすぐに、山奥の炭鉱で炊事の働きに出ていた佐倭さんのもとに走った。「お母ちゃん。お父ちゃん生きてる」。諦めていた知らせに、佐倭さんはぽろぽろと涙を流して喜んだ。
生前語らなかった被爆体験
9月半ばに召集が解除されて再会を果たした一家は、三郎さんの故郷の滋賀県を経て、東京に移り住んだ。
三郎さんは、家族の前で被爆の体験を語ることはなかった。ただ、睦美さんが高校生の時、米国が太平洋のビキニ環礁で核実験を行ったというニュースを知り、「まだ懲りずにやってんのか」と怒りをあらわにしたことを、睦美さんは覚えている。
その言葉に込められた思いを睦美さんが知るのは半世紀後、三郎さんの遺品の中から手記を見つけた時だった。
<あの日あの時、息が苦しく、気がついてみると、全身何かで押さえつけられて、何が何だかわからないままの状態で蘇生したのです>
記されていたのは、原爆投下直後の広島の惨状と、それを目にした三郎さんの心情だった。
兵舎で休息中に原爆さく裂
その日の朝、三郎さんは腹痛のため、朝礼に加わらずに広島城近くの兵舎で休んでいた。
多くの兵隊は前夜からの空襲警報と警戒警報の繰り返しで警備につき、一睡もしていなかった。三郎さんも寝不足で、いつの間にか眠ってしまっていた。
午前8時15分、兵舎から約500メートル南の地点で米軍が投下した原爆が、上空600メートルでさく裂。強烈な爆風によって兵舎の土壁が倒れ、そばで寝ていた三郎さんは埋まった。
<目を開けようとしても顔の上に何かがあって、目を開けるとゴミが入って痛む。頭が不明確で夢か現実なのかもわからない。が、だんだん頭もはっきりしたようで、耳は聞こえるが熱くて仕方がない>
目の前の惨状、何が起きたのか理解できず
三郎さんがもがくと少し隙間ができ、全身の感覚がないままはい出した。
兵舎の裏庭にあった洗濯場で水をかぶり、目を洗って辺りを見ると、兵舎は炎を上げ、たくさんの兵隊が倒れていた。水槽に顔を突っ込んでいる人も多かったが、すでに死んでいた。倒れた兵隊を抱き起こそうとすると、皮膚がずるっとむけた。
「地震が起きたか、弾薬庫が爆発したのか」。何が起きたのか、三郎さんは理解できなかった。
南隣の広島第一陸軍病院の方から火が迫ってきた。自分と同じく倒壊したがれきからはい出てきた兵士は顔中血だらけで、三郎さんは「死んでいる兵隊のことを思えっ」と励ましながら顔に刺さるガラス片を抜いてやり、2人で太田川まで出た。
そこで目にした光景は、市民たちの凄惨な姿だった。
<顔がどす黒く腫れあがり転がっている人、目も口も黒ぶくれで水を乞う人、手の甲の皮膚がむけその皮を指先からたらしてノロノロと歩いている人、「熱い!熱い」と叫びながら川に飛び込んでそのまま流れていく人、ぐったりした子どもを抱いて泣いている女の人――>
手当てをした半数以上は翌朝までに死んだ
けが人の一人から、米軍爆撃機B29による爆撃だと聞かされた。雷鳴がとどろき、大粒の黒い雨が降る中を北数キロの高射砲の陣地までたどり着き、連れの兵士を預けた後、午後に兵舎へと戻った。爆心地の方面から郊外へ向かう人々とすれ違ったが、お化けの行列のように感じた。
兵営には10人ほどの兵隊が生きており、みんなで壕から消毒液の「赤チン」を掘り出すと、けがをした200人ほどに塗って寝かせた。その中には、当日朝に入隊したばかりの私服の兵隊もたくさんいた。一夜が明けると、寝かせたうちの半数以上が息を引き取っていた。
三郎さんは召集が解除されるまで1か月余り兵営にとどまり、掘った穴に無数の被爆者の遺体を並べ、油をかけて火葬する任務に当たっていたと、睦美さんは後に聞いた。
「命ある限り核廃絶を唱え続ける」
睦美さんは手記を読むまで知らなかったが、三郎さんは戦後に靴クリーム製造会社を退職後、核兵器の廃絶運動に参加し、核兵器の恐ろしさを人々に語っていた。2024年の被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」のノーベル平和賞につながる取り組みだ。
三郎さんは、原爆が人体にもたらす影響の研究のため、死後は献体する意思も示していた。手記はこう締めくくられている。
<これから先も命ある限り、私は核を目の敵として廃絶を唱え続ける一人であることを信じています>
爆心地から500メートル圏内で被爆し、広島大学の研究所や広島市などが1960年代後半から実施した調査で把握できた生存者は78人いたが、2026年8月1日現在、存命なのは大阪府の90歳男性の1人だけとなった。
父と母の思い語り継ぐ
妻の佐倭さんは、三郎さんより4年早く、87歳で亡くなった。三郎さんが召集された4日後の岡山空襲で、一人で幼い4人の子どもを守り抜き、その気持ちを詩に残していた。
<みんなそろって 生きていた 誰も死なずに 助かった>
<逃げまどう 炎の中の 母と子に 朝の光が 悪夢を覚ます>
母は生の喜びをつづり、父は核への憎しみを刻んだ。一家が体験した戦争を、睦美さんは地元の小中学生らに語っている。
「戦争はすべてを破壊し、未来を遮断する。今日の平和に感謝し、それを次の世代の人々につなぐ使命が、私たちみんなにあると思います。どうか、そのことに気づいてください」



