長崎県の新上五島町に住む高井良明さん(93)は、旧制瓊浦中の生徒だった12歳の時に長崎市で被爆した。離島から進学や仕事で長崎市へ渡り、被爆した人々の一人だ。被爆者が減少する中、子どもたちに体験を伝えてきた高井良さんは、「若い世代に頑張ってもらいたい」と思いを託す。
進学のため長崎市へ、被爆当日の記憶
高井良さんは上五島で生まれた。有川国民学校を卒業後、進学するため1945年に長崎市へ渡った。だが当時は勉強する余裕はなく、塹壕を掘ったり、軍国教育を受けたりした。先輩に暴力を振るわれるのが日常茶飯事だったという。
親戚の家がある片淵から竹の久保にある学校まで通っていた。8月9日は英語の試験があり、朝から登校する予定だった。空襲警報が鳴っていたため、親戚からは「朝から行くな」と引き留められたが、それでも学校へ向かい、10時過ぎまで試験を受けた。
試験後、久しぶりの休みだったため、浦上方面にある友人宅へ向かおうとしたが、自宅へきびすを返した。銭座町辺りへ差し掛かった時、敵機来襲の鐘が鳴った。その瞬間から記憶がなくなった。衝撃からか気絶したのだ。
気絶から目覚め、30メートル飛ばされていた
4時間ほどたって目が覚めると、30メートルほど飛ばされていた。空は真っ黒だった。再び気を失い、次はある男性に起こされて目を覚ました。男性は自転車で近くの防空壕まで運んでくれた。途中、止まっていた電車の窓からは人がもたれかかりながら倒れており、生きている人も皮がめくれていた。
周辺は火災で火の海となっており、壕にも火が入ってきたため逃げた。体のあちこちにやけどを負っており、足にはガラス片が刺さっていたが、気にならなかった。「自分のことで精いっぱいだった。下宿に帰ってきたとき、親戚から『生きてて良かった』と言ってもらった」と振り返る。
戦後を生き、体験を伝えるまで
同20日に上五島行きの船へ乗り、実家へ戻った。島で療養した後、再び長崎市内へ戻り、長崎東高へ入学した。卒業後は県庁へ入庁し、30歳の時に地元の町役場へ入った。
若い時は原爆が恐ろしく、当時の話をほとんどしたことがなかった。被爆者健康手帳は取得したものの、あまり使わなかったという。だが、年を重ねるごとに、被爆の実相を知ってもらいたいと考えるようになり、小中学生などに自身の体験を伝えてきた。
ある思い出が頭から離れない。3年ほど前に亡くなった妻が生前、「原爆の被害に遭っていたと知っていたら、結婚しなかったかもしれない」と高井良さんに言った。真意は分からないが、ショックを受けた。高井良さんにとって、原爆はそれほどまでにつらい存在だった。
島では本土より医療体制が整っておらず、70~80歳までの10年間、大腸がんを患った際に月1回、長崎原爆病院に通っていたこともある。「原爆を受けたのに90歳まで生きられたのは奇跡だと思う」とし、「被爆の実相を若い世代などに知ってもらいたい」と話している。
県内の離島に300人以上の被爆者
県原爆被爆者援護課によると、県内の主な離島には300人以上の被爆者が暮らしているとみられる。今年3月末時点では、五島市189人、新上五島町74人、壱岐市28人、対馬市24人、小値賀町4人などとなっている。
高井良さんが所属する県被爆者手帳友の会には現在、新上五島町の約30人が参加している。連絡が取れない被爆者も多く、支援が難しい面があるという。



