太平洋戦争の敗戦後、捕虜虐待などで裁かれたBC級戦犯の一人、陸軍少佐・保田直文氏の長女、村田佳代子さん(82)(神奈川県鎌倉市)は、幼い頃に横浜の法廷で裁判を傍聴し、収監された父と金網越しに面会した。釈放後、父は家族の待つ家には戻らず、戦後50年を経て再会したが「お父さん」と呼ぶことはなかった。村田さんは「戦犯の家族である自分も、長い人生のどこかで戦争の罪を背負っている」と感じながら、絵を描き続けている。
4歳で見た法廷の父、金網越しの面会
佳代子さんが母の膝の上に座り、法廷に立つ父を見つめたのは4歳の時。父は戦時中、陸軍で愛知県などを管轄する東海軍の兵站参謀を務め、この時の行為がBC級戦犯に問われ起訴されていた。
戦後、政府や軍の指導者はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれ、25人が有罪となり、このうち東条英機元首相ら7人が絞首刑を言い渡された。一方、捕虜虐待や民間人殺害など「通例の戦争犯罪」の責任を問われたBC級戦犯の被告人は約5700人に上り、裁判は国内外49の法廷で行われた。このうち唯一国内で行われたのが横浜裁判で、1945年12月から49年にかけて約1000人が裁かれた。
佳代子さんの胸には法廷を傍聴した記憶が刻まれ、「結審の時に父と視線を交わしたことを覚えている」と語る。もちろん、幼くして裁判の内容を理解していたわけではない。軍で何があったのか、保田さんが還暦を過ぎてまとめた随筆「鉄門」からひもといてみたい。
東海軍事件と有罪判決
保田さんは1916年、大阪府の天王寺村(当時)に生まれた。親友に誘われて陸軍士官学校を受験し合格。陸軍大学校で優秀な成績を収め、恩賜の軍刀を授与された。エリート軍人として東海軍で最年少の参謀を務めていた時、「東海軍事件」が起きた。
東海軍司令官の岡田資中将は、日本を空襲した米軍機を撃墜して捕虜とした搭乗員27人について、民間人を含めた無差別爆撃であると判断し、部下に命じて45年6月から7月にかけて斬首した。この件が戦後、正式な審理を行わないまま捕虜を処刑した虐待行為だったと問題視された。
保田さんは米軍との連絡将校に指名され、事件の調査に忙殺された。調査は行き詰まり、保田さんは「上の人達は一部を除いて非協力的で逃げの姿勢である。憤慨に堪えないので、すべてを私の独断専行ということにしてその旨書き残し自殺を決意した」と別の参謀に打ち明けたと、随筆に残している。最終的には、岡田中将が「一切の責任は俺がとる」と判断し、起訴された将兵20人は法廷で原則として真実を答弁することが決まった。
裁判は48年3月に始まり、同5月の判決で岡田中将は絞首刑を言い渡された。保田さんは、岡田中将の処刑の方針に反対しなかったとして有罪判決を受け、重労働15年を命じられた。
巣鴨プリズンでの面会
保田さんはA級戦犯らとともに、連合国軍総司令部(GHQ)が東京拘置所だった建物を接収した「巣鴨プリズン」に収容された。佳代子さんは2か月に1度ほど、母と一緒にGHQが手配した軍用車に乗って面会に行った。面会の日には新しい服や靴が用意され、佳代子さんは「特別なお出かけなんだと感じていた」という。
憲兵の立ち会いの下、30分ほどの面会の間に、佳代子さんは幼稚園での出来事などを父に話した。「父は穏やかな顔で話を聞いていた」と振り返る。親子は金網越しに互いの指や手を重ねた。面会がない日も、午後3時頃になると母に手を引かれて甲州街道へ向かい、米軍のトラックに手を振るのが日課だった。トラックは巣鴨プリズンと米軍基地とを往復しており、戦犯が基地で重労働をしているという話を聞いていた。時折、車内の人が手を振り返してくれた。「もしかしたらお父さんが乗っているかもしれない」と、佳代子さんは手を振り続けた。
釈放後、父は帰ってこなかった
小学校に入学すると、通学中に同級生から「佳代子ちゃんのお父さん、獄舎に入ったんだって」とはやし立てられた。佳代子さんは目に涙をためながら言い返した。「日本が戦争したからだ、お父さんは私たちの代わりに獄舎にいるのだ」と。
しかし、父は帰ってこなかった。52年4月にサンフランシスコ平和条約が発効し、戦犯は釈放されたはずなのに。佳代子さんが家族に理由を尋ねると、「子どもは首を突っ込んではいけない」と諭された。その後、両親が協議離婚したと知らされ、佳代子さんの名字は「保田」から、母の旧姓である「丹羽」に変わった。父のことは、「家族のことを思って家を離れ、別人として生き直すことを決めたんだ」と考えるようにした。
戦後50年の再会
幼少期から油絵を学んでいた佳代子さんは、大学卒業後、アトリエで児童らに絵を教えながら、洋画家となった。結婚して、姓も「村田」になった。
戦後50年の節目となる95年、銀座の画廊で催した個展に、70歳代くらいの男性が訪れた。作品を一通り見た後、中央のソファに腰掛けたままでいる男性に、佳代子さんは不思議に思いながらお茶を差し出した。男性は彼女の顔をしげしげと見た後、「村田佳代子さんですか」と尋ねてきた。佳代子さんは、男性の顔立ちが弟とそっくりなことに気付き、言葉を詰まらせた。目の前にいるのは、40年以上前、金網を隔てて言葉を交わした相手だった。
だが、再会した保田さんのことを、佳代子さんは「お父さん」と呼べなかった。「もう親子ではない」と感じたからだ。保田さんは「美術雑誌で見つけて訪れた」と話し、偶然をよそおったが実は違った。陸軍士官学校の卒業生だった叔父が、会報で保田さんの消息を知り、佳代子さんの絵が掲載された美術雑誌を匿名で郵送していたのだ。
「苦労をかけた」と謝罪する保田さんに、佳代子さんは「母も弟も元気ですよ」などと答えたが、心の内では「私ではなく、母に言ってほしかった」と思った。別れ際、保田さんは「美術雑誌が好きなんだ。送ってくれよ」と言った。その後も年に2、3回ほど文を交わすようになり、文通は約10年続いたが、互いのことは名前で呼び合い、「父」と「娘」としてのやりとりではなかった。保田さんは2005年に亡くなった。
戦争の罪を背負い、絵を描く
佳代子さんはキリスト教徒で、絵の主題の一つが「殉教者」だという。戦犯という罪を背負わざるを得なかった保田さんを重ね、「人間世界の残酷さを表現したい」と現地取材を続けながら、全国の殉教者を描き、国内外で個展を開いてきた。
「戦犯の家族である自分も、長い人生のどこかで戦争の罪を背負っている」と感じている。父との別れを経験した自分だからこそ描ける絵があると信じて、面会時に自身の手と、金網越しにいる父の手を重ね合わせた絵も描いた。
戦後81年の今年はマザー・テレサをテーマに、戦争や平和を考える展覧会を開くつもりだ。「絵は世界共通の言葉になる。今後も、読ませる絵を描いていきたい」と前を向いている。
全容不明の横浜裁判、弁護士会の調査が続く
戦犯とその家族の人生を大きく変えた横浜裁判だが、全容はつかめていない。
神奈川県弁護士会の前身である横浜弁護士会は1997年に特別委員会を設立し、6年間かけて横浜裁判の調査研究を進めた。戦犯の弁護人を務めた弁護士が保管していた資料を手がかりに、米軍の裁判記録や被告の遺族らへの聞き取りなどから明らかにした事件の一つが「東海軍事件」だった。
2020年から調査を再開し、現在は18人の弁護士が携わり、28年3月までのとりまとめを目指している。BC級裁判は、戦時下という非常時に起きた出来事を、法律に基づいて「犯罪」だと認定する取り組みでもあった。会長を務める石黒康仁弁護士(75)は、横浜裁判の研究を通して、「法の支配の大切さを伝え、国際法が軽視される国際情勢に警鐘を鳴らすことができないだろうか」と模索を続けている。



