81回目の原爆忌を迎えた広島で6日朝、鎮魂の祈りがささげられた。広島県北広島町の石橋新子さん(87)は、あの日に見た「地獄絵図」の記憶を長く胸にしまい込んできたが、2024年にノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員、箕牧智之さん(84)との出会いを機に、平和記念式典に初めて参列し、昨年始めた被爆証言を今後も続けていく決意を新たにした。
80年前の「地獄絵図」
1945年8月6日、石橋さんは爆心地から約3キロの自宅にいた。父は同年春に硫黄島で戦死し、母の春美さん(2006年に90歳で死去)との2人暮らしだった。けがはなく、近くの防空壕へ避難し、数時間後に外に出ると、「一生忘れられない地獄絵図」が広がっていた。
やけどを負いながら、動けない友人を担架で運ぼうとする女子学生、焼けて真っ黒になった遺体。家に戻ると、親戚たちが避難してきた。無傷だった親戚の一人は、数週間後に耳や鼻から血を流して亡くなった。石橋さんは「原爆の恐ろしさを実感し、震え上がった」と振り返る。
蓋をしていた記憶
中学卒業後、理容師を目指して大阪などで修業を積み、結婚を機に北広島町に移り住んで理容店を営んだ。仕事の忙しさと記憶を呼び起こすつらさから、被爆体験には蓋をしていた。
昨年1月、客の誘いで、町内で開かれた箕牧さんの平和賞受賞報告会を訪れた。被団協は被爆証言を通して核兵器廃絶を訴え続けてきた活動が評価され、平和賞を受賞。3歳で被爆した箕牧さんは、坪井直さん(2021年に96歳で死去)の後任の被団協代表委員に就任しており、受賞決定時に「うそみたい」と涙を浮かべながら頬をつねる姿が繰り返し報道された。
石橋さんは同じ町内に住む箕牧さんを知ってはいたが、「すごい人がいるんだな」と思った程度だった。しかし、報告会で初めて聞いた箕牧さんの講演。万全でない体調をおして核廃絶への思いを語る姿に、「こうして活動してきた人がいるから、核兵器が使われずにきたんだ」と実感した。
被爆証言への決意
数か月後、知人を通して箕牧さんから被爆証言を頼まれた。「原爆を知らない世代に伝え、警鐘を鳴らさなければ」。昨年5月、修学旅行の小学生を前に、箕牧さんと一緒に初めての被爆証言に臨んだ。
話の途中で涙がこぼれたが、児童たちは熱心に聞いてくれた。終わると箕牧さんから「これからも頼む」と声をかけられ、続けていく決意をした。箕牧さんは「石橋さんは記憶がはっきりしており、核兵器の恐ろしさをきちんと伝えることができる」と期待する。
初の式典参列
6日の原爆忌。例年はテレビで式典の様子を見ていたが、今年は母から受け継いだ黒い数珠を手に参列した。原爆死没者慰霊碑に献花して祈りをささげ、「母たちの名前が納められている『第二の墓』に献花し、一生の宝物のような時間だった。体験を語らないといけないという気持ちが強くなった」と話した。



