太平洋戦争末期、学童疎開から東京に戻った村松武さん(93)は、3日後の東京大空襲で同級生4人を失った。「死にに帰ってきたようなものだ」と振り返る。
疎開先から戻り、空襲に遭う
村松さんは1944年9月、浅草区立精華国民学校(現・台東区立蔵前小学校)の3~6年生約350人とともに宮城県白石町(現・白石市)へ集団疎開した。10人きょうだいの末っ子として育った村松さんは、当時11歳だった。
疎開先では約50人が宗教施設の本堂に布団を敷き詰めて寝食を共にした。食事は限られ、毎日が空腹との闘いだった。ご飯は100回以上かんで食べ、甘い物がなく、練り歯磨き粉を丸めて口に入れて気を紛らわせた。
1945年3月、卒業や中学受験を控えた6年生は一足早く東京に戻ることになった。3月7日に上野駅に着き、浅草の自宅に帰ったが、父の豊太郎さんは「ここにいちゃだめだ。お前たちは先に逃げろ」と告げた。村松さんは母と兄とともに千葉県市川市のバラックへ避難した。
同級生4人が犠牲に
3月10日未明の東京大空襲で、浅草に残った父と一番下の姉は行方不明となり、自宅は全焼した。焼け跡の砂を遺骨代わりにして墓に埋葬した。
一緒に疎開先から戻った同級生のうち、4人が空襲で犠牲になった。一緒に遊んだこともあった男の子は、火の海となった街を逃げ惑ううちに服に火が燃え移り、「天皇陛下万歳」と叫びながら亡くなったという。
村松さんは「死にに帰ってきたようなものだ」と感じ、悔やんでも悔やみきれなかった。
終戦後、同窓生と再会
一家は山形県に逃れ、終戦まで過ごした。玉音放送は開墾の作業中に聞いた。終戦後は市川に戻り、大学を経て会社員として過ごした。
戦後10年以上がたった頃、同じ学寮に疎開していた同窓生で集まることになった。上野公園の日本料理店に男女5、6人が集まり、担任の先生ご夫妻も交えて思い出を語り合った。その後、数年に1回のペースで会合を開くようになり、連絡先が分からない仲間には新聞広告で呼びかけた。
1974年には卒業式が行われ、29年前に受け取るはずだった卒業証書を手にした。会合で下級生だった女性が「ああ、生きていてよかった」と口にした言葉を聞き、村松さんは生死の瀬戸際を経験したのだと実感した。
村松さんは「自分は運がよかっただけじゃないかな。それしか考えられない」と受け止め、戦争を二度と起こしてほしくないと願っている。



