秀吉でも家康でもない…最新研究でわかった、明智光秀を本能寺の変へ追い詰めた信長の側近の名前
本能寺の変を招いた信長の側近とは 最新研究で判明

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が、いよいよ本能寺の変を描く。明智光秀はなぜ主君・織田信長を討ったのか。これまで「日本史最大の謎」とされ、豊臣秀吉、徳川家康、朝廷、足利義昭などをめぐる黒幕探しが繰り返されてきた。しかし近年、一次史料の発見と研究の進展により、信長の四国政策が光秀を追い詰めたとする「四国説」が有力視されている。ルポライターの昼間たかし氏が、最新研究から本能寺の核心に迫る。

四国説の台頭と黒幕探しとの違い

これまでの「本能寺の変・黒幕は誰だ」論争と四国説はまったく毛色が異なる。朝廷説、家康説、秀吉説、イエズス会説、足利義昭説など、令和になっても新説が量産され続け、テレビの特番は毎年のように「日本史最大の謎」を看板に掲げる。だが、これらはすべて「誰が光秀を操ったのか」という黒幕探しの側面が強かった。それに対して四国説は、光秀が主犯ともいえる説だ。そのため、突飛な説の一つと思われていたことは否めない。

この説は歴史研究者の藤田達生氏や桐野作人氏などによって唱えられてきた。例えば、この説を支持する土佐史研究家の朝倉慶景氏は「長宗我部氏の四国侵攻と本能寺の変」で、信長と長宗我部元親の対立過程を検証。元親が戦争回避を検討しているのに対して「信長は、四国について全く無関与にもかかわらず、相手がとうてい承諾しえない条件を一方的に提示して、拒んでくるのをあたかも期待し、戦争を待っているかの態度である」としている。

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史料なき四国説を変えた「石谷家文書」

ただ、この説は多くの支持を集めるものではなかった。というのも、対立を原因とすることを明確に論証する史料に欠けていたためだ。中脇聖氏は「長宗我部氏から見た本能寺の変」(『歴史読本』2014年6月号)で、一次史料を検討した上で、つぎのように述べている。「これまでの諸研究で強調されてきた光秀の立場の後退は、四国政策の転換によってもたらされたというより、織田権力の長宗我部氏への処遇に不信感を抱いた元親による毛利氏接近によって引き起こされたこと。『本能寺の変』の原因が長宗我部氏の討伐を回避せんとする光秀・利三主従によるものとする具体的な史料的根拠が存在しないからなのである」。

しかし、近年発見された「石谷家文書」が状況を一変させた。この文書は、当時の当事者である石谷頼辰(光秀の家臣)の手紙がまとめて保存されていたもので、四国政策をめぐる信長と元親の交渉過程を詳細に伝えている。石谷家文書の分析により、信長が元親に対して極めて強硬な態度を取り、妥協を許さなかったことが明らかになった。

光秀を追い詰めた信長の側近・松井友閑

さらに、最新研究で注目されているのが、信長の堺代官・松井友閑の存在だ。松井友閑は信長の側近として、四国政策の実務を担当していた。石谷家文書からは、松井友閑が光秀の意見を無視し、信長に対して強硬路線を進言していた可能性が浮かび上がる。光秀は長宗我部氏との和平を模索していたが、松井友閑の工作によって信長の態度が硬化。光秀は追い詰められ、本能寺の変に至ったとされる。

昼間たかし氏は「光秀の天敵は、信長の堺代官・松井友閑だった」と指摘する。これまで黒幕とされてきた秀吉や家康ではなく、信長の側近が光秀を追い詰めたという構図が、最新研究で浮かび上がってきた。

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本能寺はミステリーから歴史研究の対象へ

こうした研究の進展により、本能寺の変は「日本史最大の謎」というミステリーから、実証可能な歴史研究の対象へと変わりつつある。NHK大河「豊臣兄弟!」でも、四国説を中心に描かれており、第26回「信長を笑わせろ!」では、信長が元親との約束を反故にし、光秀が蹴り飛ばされるなど、光秀が追い詰められる様子が描かれた。

これまで無数の原因が語られ、いまも次々と生み出されている本能寺の変。しかし2026年の現在、四国説はもっとも有力な説と考えられるようになっている。石谷家文書の発見と松井友閑の役割解明が、その決め手となった。本能寺の変の真実は、黒幕探しではなく、信長の側近による政治的な圧力と、それに抗えなかった光秀の苦悩の中にあったのかもしれない。