戦国乱世を終息させ、徳川幕府による260年余の太平の世を築いた英雄・徳川家康。その腹心として活躍したのが本多正信である。歴史研究家の皆木和義氏は、正信を「自分の分をしっかりとわきまえた、誰よりも主君・徳川家康に忠義を尽くした無私無欲の人生だった。『足るを知る仕事術』を完遂したといえる」と評する。
家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣
『名将言行録』には、正信を「人となり深沈膽略あり。明察果断、一時比なし」と記している。つまり、落ち着いて動じず、大胆で知略に富み、事態をはっきり見抜いて思い切った決断ができる人物だったという。徳川幕府確立の最大の功労者と評価してよいだろう。
しかし、『徳川実記』や『三河物語』によれば、その評判はあまり良くない。特に武功派(武断派)の家臣たちからは嫌われ、佞臣、奸臣呼ばわりされたようだ。権力闘争をするライバルや敵対する側から悪く言われるのは世の常だが、それは文治派の優れた吏僚、行政官僚ゆえの宿命ともいえる。現代でいえば、現場たたき上げの営業幹部が、現場の苦労を知らない管理部門の経営企画や総務、経理の幹部を非難するのに似ているかもしれない。
「腰抜け」と罵られた正信
同族で徳川四天王の一人である本多忠勝からは、「佐渡の腰抜け」(正信の官名が佐渡守だったことに由来)と罵られ、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」とまで言われている。正信は、家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣でありながら、武功派からは徹底的に嫌われたのである。
正信は、戦わずして勝つ戦い方を身につけていた。無理な戦いを避け、粘り強く交渉や調略を重ねることで、最小の犠牲で目的を達成する手法を好んだ。これは、家康が目指した「太平の世」の実現に直結するものだった。
領地の加増を断り続けた無私の生き方
正信の無私無欲の姿勢は、領地の加増を何度も断ったことにも表れている。功績を挙げても決して欲張らず、自分の分をわきまえた行動を貫いた。この「足るを知る」姿勢が、家康からの絶大な信頼を得る要因となった。
皆木氏は、「正信は『強からず、柔らかならず』の精神で、不得手の合戦では戦闘能力で勝負せず、知略と調略で勝利を収めた。領地の加増を断り続けた無私の生き方こそが、徳川260年の礎となった」と指摘する。
正信のような「汚れ役・悪役・憎まれ役」を引き受ける人物がいたからこそ、徳川幕府は長期安定を達成できたのである。



