今年4月29日、日本武道館で「昭和100年記念式典」が開催された。1926年12月25日に始まった昭和が満100年を迎えたことを記念するものだ。式辞で高市首相は「昭和の時代を顧み、我が国の伝統や歴史の重みを噛みしめながら、将来に思いを致す機会としたい」と述べ、戦争、終戦、復興の歴史を振り返った。さらに、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、日本が国連加盟を果たした1956年当時について「今日よりは明日はよくなる。70年前の昭和の日本には、希望が、確かにありました」と称賛した。
この式典は、かつての「よき時代」を懐古し、「温故知新」の教えに思いをはせる型通りのセレモニーだった。しかし、昭和200年を見据えた未来への展望は感じられなかった。
明治100年に田中角栄が示したビジョン
約60年前の1968年(昭和43年)、明治100年にあたる年に、ある政治家が月刊誌「文藝春秋」に熱量あふれる文章を寄せていた。当時の自民党幹事長、田中角栄である。寄稿のタイトルは「日本列島改造の青写真」。この4年後、この構想をベースにした「日本列島改造論」がベストセラーとなり、田中は首相の座についた。
田中はこの中で「今年は明治百年にあたる。国家として、一つの記念すべき年なのだ。先人の血と汗できずかれた明治百年をふりかえるということは、同時に、明治二百年への展望を持つ、ということである」と記した。明治をただお手本とするのではなく、新たな時代を切り開く気概に満ちていた。
日本列島改造論の構想と現実
当時、日本は高度成長期だったが、住宅難、通勤ラッシュ、公害などの社会問題が顕在化していた。田中は「自国の復興、成長だけに努力することを、世界も大目にみてくれていた」時代が終わろうとしていると指摘し、楽観を戒めた。
彼の構想は、北は北海道・旭川、南は九州・鹿児島を結ぶ新幹線を太平洋側と日本海側に2本建設し、それを肋骨のように複数の新幹線でつなぐというもの。「そうすれば、全国がいわば東京、大阪の郊外になる」という壮大なビジョンだった。
日本列島改造論は、その後の石油ショックもあって狂乱物価や地価高騰を招き、頓挫したというのが一般的な評価だ。しかし、今や新幹線は北海道から九州までつながり、上越、北陸新幹線も建設された。スケールダウンはしたものの、青写真の基本線は実現している。
令和日本の閉塞感を打開するヒント
もちろん、「国土の均衡ある発展」を旗印とした政策は、行き過ぎた利益誘導や金権政治の横行、地域間格差や不公平の拡大など、多くの問題を起こした。禍根を残した大プロジェクトではあったが、高速度交通網で日本全体を一つの「メガロポリス」にするという巨視的な構想力は、令和日本の閉塞状況を打開するヒントになるのではないか。
高市政権の重要政策は、強い経済、外交・防衛・危機管理の強化、地方対策と目配りがきいている。だが、これまでの平成・令和の政権と同様、「当面する諸問題への対処」という印象は拭えない。「角さんの時代とは違う」と投げ出すのは簡単だが、「昭和200年」の繁栄を期するビジョンはないものか。いま一度問い直したい節目の年である。



