警視庁公安部外事課の元公安捜査官、勝丸円覚氏が明かしたところによると、ロシアのスパイは元陸上自衛隊のナンバー2にあたる元陸将との接触において、巧みに相手の虚栄心を刺激し、師弟関係を構築することで内部文書を入手していた。この手口は、退官後の元幹部自衛官が持つ人脈や専門知識への誇りを利用したものである。
レセプションでの偶然の出会い
201×年、東京都心のホテルで開催された欧州某国大使館のナショナル・デー・レセプション。勝丸氏は公館連絡の職務で出席し、来場した外交官たちの顔ぶれをチェックしていた。その中で、軍服姿の外国人と背広姿の日本人男性が熱心に立ち話をしている光景が目に留まった。軍服姿の男はセルゲイ・コワリョフ。表向きはロシア大使館の駐在武官だが、実態はロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の諜報員と目される人物だった。
問題は、コワリョフと話している日本人男性だった。60年配で姿勢が良く、付き人を一人従えた風格のある人物。名刺交換後の会話は初対面とは思えないほど親密で、同じ職業同士が共通の関心事を語り合っているように見えた。勝丸氏は直感的に「あの男はチェックしたほうがいい」と判断した。
元陸将の特定と内部文書漏洩
その後、外事一課の秘匿捜査員による調査で、その日本人男性が元陸上自衛隊のナンバー2、すなわち元陸将であることが判明。さらに、コワリョフとの接触を通じて、自衛隊の内部文書(「教範」と呼ばれる部隊運用マニュアル)が流出していた可能性が浮上した。
勝丸氏によれば、ロシアのスパイは情報源との関係構築に際し、まず相手の専門知識や経験を熱心に称賛し、教えを請う姿勢を見せる。これにより、元陸将は「退官後も自分は価値ある知識を持ち、豊富な人脈を誇れる」という虚栄心を満たされ、やがてスパイを弟子のように扱う師弟関係に発展したという。
巧妙な心理操作と強制捜査のジレンマ
「ロシアのスパイは、情報源となる相手の自尊心を巧みにくすぐり、自ら進んで情報を提供させる心理状態に持ち込む」と勝丸氏は解説する。元陸将は、自身の専門分野である部隊運用について熱心に質問され、教えることで優越感を得る一方、その情報が諜報活動に利用されていることに気づかなかった。
警視庁公安部外事課は、こうしたスパイ事件の摘発に際し、どこで強制捜査に踏み切るかが常に課題となる。スパイは追跡を感知すると歯ぎしりして耐えるが、証拠が不十分な場合は摘発が一切公表されずに終わることもある。報道されるスパイ事件は氷山の一角に過ぎない。
「敵を欺くにはまず味方から」の原則
勝丸氏は、スパイ活動の基本原則として「敵を欺くにはまず味方から」という言葉を引用。情報源との関係構築において、スパイは自らの正体を隠し、相手の信頼を得るためにあらゆる手段を講じる。元陸将の場合、退官後の名誉欲や自己顕示欲が巧みに利用された。
本稿は、勝丸円覚氏の著書『警視庁公安部外事課』(光文社新書)からの抜粋である。同書では、公安捜査官としての経験に基づき、スパイ活動の実態や捜査の内幕が詳細に描かれている。



