『豊臣兄弟!』本能寺の変の鍵、光秀を謀反に導いた偽の御内書の真実
豊臣兄弟!本能寺の変の鍵、偽の御内書の真実

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(総合テレビ、毎週日曜午後8時~ほか)で、前半のクライマックスとなる本能寺の変が放送された。小栗旬さん演じる織田信長(1534~82)は、要潤さん演じる明智光秀(?~1582)に襲われ、炎の中で壮絶な自害を遂げる。その刹那に信長が見たのは、中沢元紀さん演じる実弟・織田信勝(信行、1536~58)の幻だった。信勝は織田家当主の座を狙って信長を裏切り、謀殺されている。互いを信じて強い絆で結ばれた「豊臣兄弟」のアンチテーゼとして、互いを信じられず憎みあった「織田兄弟」を据えたドラマらしい本能寺の変の演出だった。

偽の御内書が光秀を謀反へ導く

ドラマでは、信長兄弟の相克を描き込むため、緒形敦さん演じる信勝の忘れ形見・織田信澄(1555?~82)が、義父である光秀の謀反を後押しする「黒幕」として暗躍した。実父を殺した信長に復讐するため、信澄は光秀を罠にかける。尾上右近さん演じる光秀のかつての主君・足利義昭(1537~97)の密書(御内書)を偽造したのだ。その御内書には「可討取信長候也(信長を討ち取るべし) 義昭花押」と記されていた。

御内書を受け取った光秀はその内容に驚愕しつつ、今の主君である信長に伝えなかった。焼き捨てることもせず、隠し持ったことで、真贋にかかわらず光秀の信長への叛意を示す証しとなった。ひた隠しにしてきた信長への不信感を信澄に見抜かれた光秀は、それをきっかけに謀反へと傾いていく。

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ドラマの中で光秀は、内藤剛志さん演じる筆頭家老の斎藤利三(としみつ、1534~82)を介して義昭と接触する。「信長を討て」という命令を得られれば偽の御内書が本物になり、謀反を正当化できると考えたのだ。しかし義昭は「自分を巻き込むな」と利三に告げるのみだった。これを聞いた光秀は深く失望した後、偽の御内書を握りつぶし、「これは上意(将軍の命令)である。敵は本能寺にあり」と呻くように出陣を命じる。

義昭の御内書は史実として存在し得たか

義昭の「信長を討て」という御内書は現存していない。しかし、今残っていなくても、昔もなかったとは言えない。史実を踏まえて、ドラマのカギを握った義昭の御内書が存在し得たのかどうかを考えてみたい。

義昭は信長に敵対する大名にしきりに御内書を出して信長包囲網を築き、京を追放されてからも河内(現在の大阪府)の若江城、紀伊(同和歌山県)の由良、備後(同広島県)の鞆(とも)の浦などを転々としつつ、京への帰還を目指して諸大名に協力を求めていた。追放後も義昭は将軍職を退任しておらず、御内書には一定の影響力があった。

しかし、ずっと御内書を出し続けていたわけではない。天正2年(1574年)4月から翌天正3年(1575年)にかけて、御内書の乱発を止めた時期もある。この理由について、信長研究の第一人者だった谷口克広(1943~2021)は『信長と将軍義昭』の中で、「想像の産物」と断りつつ、同年3月末に信長が天下一の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を切り取ったことが関係しているのではないかと指摘している。

正倉院宝物の蘭奢待は朝廷の許可がないと切り取れず、朝廷が認めるのは武家では将軍クラスのみ。信長の切り取りは朝廷が信長を将軍と同格と認めたことを意味する。それを知った義昭は落胆し、御内書を出す気力がうせたのでは、というわけだ。

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花押の変化が示す義昭の立場

東京大学史料編纂所教授の黒嶋敏さんは『天下人と二人の将軍』の中で、御内書が急激に出なくなる直前に義昭が使った花押に注目し、別の見方を示している。天正2年4月に出された御内書には、将軍として用いていた通常の公家様式の花押とは別に、側近向けの花押が突然登場する。この側近向けの花押は、義昭の父で12代将軍の足利義晴(1511~50)が隠居を宣言した時に使った花押とよく似ている。

隠居と言っても形式的なもので、義晴は実際に将軍職を退いたわけではないが、義昭は父の幕政を手本としていた。黒嶋さんは、このころ義昭にも代替わりの話が出たため、義昭は義晴の花押をまねたのではないかと推測する。

義昭は京から追放される際、まだ2歳だった子の義尋(ぎじん、1572~1605)を人質として信長に差し出している。信長も当初は義尋を義昭の次の16代将軍に据えることを考えていた。天正2年4月には信長と石山本願寺が開戦し、義昭は本願寺に肩入れしている。信長と本願寺の間で16代将軍が和睦・停戦などの交渉材料になるとみた義昭が側近向けの花押を使い、その後は御内書の乱発を控えて戦況を見守っていた可能性がある。

ただ、天正3年11月に信長が嫡子の織田信忠(1557~82)に家督を譲った時点で、義尋の将軍就任の可能性は消滅した。天正4年正月に鞆の浦に移った義昭は、再び諸大名に対する御内書を盛んに送り、信長打倒を呼びかけるようになる。その花押は公家様式の花押の変形で、義昭がまだ将軍であることをアピールするものだった。

本能寺の変直後の義昭の御内書

本能寺の変の直前も、この状況は変わっていない。変の11日後の6月13日には、義昭が毛利氏の有力武将に出した御内書が残っている。「信長討果上者、入洛之儀急度可馳走由、対輝元・隆景申遣条…(信長を討ち果たした上は、上洛のことをすぐに世話するよう、毛利輝元、小早川隆景に命じるので…)」

ドラマに出てきた偽の御内書の花押は、この書状の花押、つまり将軍として打倒信長を呼びかける際に使った公家様式の変形版だった。花押を見た光秀が、御内書の内容と矛盾を感じず、一度は本物と信じたのも無理はない。

だが、義昭が毛利の武将に出した本物の御内書は、本能寺の変の後に出されたものであることには注意が必要だ。「信長討果上者」を、「信長を討ち果たした上は」と読むと、光秀に命じて討ち果たしたのは義昭とも読めるが、このくだりは「信長が(光秀に)討ち果たされた上は」と読むべきだという説が有力だ。

天正5年(1577年)ごろになると義昭の将軍としての影響力は低下して御内書は減っているし、光秀は追放後の義昭とは疎遠になる一方だった。普通に考えれば義昭が光秀に「信長を討て」という御内書を出す可能性は低い。

四国政策と義昭の深い縁

だが、本能寺の変が、信長の四国政策の変更によって四国政策の責任者だった光秀が窮地に陥ったために起きた(「四国説」)とみると、事情は少し変わってくる。ドラマは土佐(現在の高知県)の長宗我部元親(もとちか、1539~99、演:磯部寛之さん)を登場させて「四国説」を描いているが、光秀が元親との交渉責任者になったのは、筆頭家老の斎藤利三が、元親の交渉実務を担う石谷氏と血縁があったからだ。その石谷氏は美濃を地盤とする土岐氏を祖とし、代々将軍の近臣(幕府奉公衆)を務めていた。

石谷氏の当主・石谷光政(生没年不詳)は義昭の兄・足利義輝(1536~65)の家臣で、義輝が暗殺された後に娘の嫁ぎ先を頼って土佐に移り、娘婿の元親に仕えている。光政は実は義輝の庶子だったという説もある。男子がいなかった光政が婿養子にしたのが利三の兄・斎藤(石谷)頼辰(よりとき、?~1586?)だった。頼辰は、義昭が京を追放されるまで、奉公衆として義昭に仕えている。

つまり、光秀と元親は頼辰と利三の「斎藤兄弟」によってつながり、光政と頼辰の父子は義輝と義昭の「足利兄弟」ともつながりがあった。毛利氏と長宗我部氏は、義昭の仲介で盟約(芸土同盟)を結んでおり、義昭は本能寺の変の後、自身の再上洛について毛利輝元(1553~1625)と相談せよ、と元親に命じる御内書を出している。

そもそも四国説が有力になったのは、石谷家に残されていた47通の文書が見つかったからで、石谷父子に四国政策の情報が集まっていたことは間違いない。義昭と元親、さらに光秀と利三が石谷父子を介して情報を取り合い、それが新たなパイプになった可能性はゼロとはいえない。

義昭黒幕説の否定と残る疑問

本能寺の変で光秀の背後に義昭がいたという「義昭黒幕説」については、多くの歴史学者が否定的な見解を示している。通説に従えば、義昭が本能寺の変の前に光秀と手を結ぶことはあり得ず、当然ながら信澄が光秀を謀反に向かわせるために義昭の御内書を偽造することも、それを光秀が信じることもなかった。ドラマでも光秀から謀反への協力を求められた義昭は「巻き込むな」と協力を拒んでおり、「義昭黒幕説」を否定している。

しかし、気になる点もある。義昭黒幕説を否定する谷口克広は『検証 本能寺の変』の中で、本能寺の変の4日後になっても、毛利氏が正確な情報をつかめていないことを否定の証拠としている。義昭が謀反の黒幕なら、当然実行犯は誰かを知っていたはずで、毛利氏に担がれて上洛を望んでいる義昭が、その毛利氏に正確な情報を伝えないはずがない、というわけだ。

だが、この時毛利氏が信じていたのは、本能寺の変は、光秀と信澄、そして信澄の育ての親の柴田勝家(1527?~83、演:山口馬木也さん)が共謀して起こしたという情報なのだ。確かに信澄が信長に背く理由はなく、本能寺の変の後も光秀に合流するそぶりさえみせていない。だが、もし信澄に隠された謀反の動機があったとすれば――これ以上は「想像の産物」になるのでやめておく。