東京メトロで最も無名?北区西ケ原が再開発されない理由とは
北区西ケ原が再開発されない理由とは

東京都北区の西ケ原は、東京メトロの中でもひときわ無名なエリアとして知られる。江戸時代には徳川家光が鷹狩りを楽しんだ地であり、現在も博物館が3つも存在する文化的な街だが、なぜ再開発が進まないのだろうか。その背景には、1923年の関東大震災に伴う市街地復興計画や、明治時代以来の国の施設の存在が深く関わっている。

印刷局工場の移転と関東大震災

印刷局の工場が大手町から西ケ原に移転された理由は、関東大震災後の復興計画により大手町の敷地が縮小されたためだ。移転先として、西ケ原にあった農事試験場という国の施設の土地が譲り受けられた。西ケ原は旧滝野川区の行政の中心地であり、公共施設が多く集まっていたが、古くから国の施設も立地していたのだ。

なぜ西ケ原に国の施設があるのか

西ケ原に国の施設が存在する理由は、明治時代の樹木試験場に端を発する。樹木試験場開設のキーパーソンは松野礀である。松野は1870年からドイツに留学し林学を学び、1875年に帰国後、内務省地理寮に入り、日本の林業を盛んにするために山林学校の設立を説いた。しかし学校設立は認められなかったため、まず樹木試験場をつくることにした。樹木試験場は国内外の樹木を養成し、風土の適否や生長状態を研究する施設である。

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松野は馬車に乗って東京近郊の土地を探し、西ケ原で茶畑の売地に出会った。1878年にその用地を買い上げて事業を開始し、1882年には樹木試験場の建物を改築、宿舎などを新築して東京山林学校が創立され、樹木試験場はその付属となった。このように、西ケ原は明治以来、国の研究施設が集積するエリアとして発展してきた。

再開発が進まない理由

西ケ原が再開発されない背景には、こうした歴史的な経緯と、現在も多くの国の施設や博物館が存在することが挙げられる。再開発には大規模な土地の整理が必要だが、国の施設が点在するため、民間主導の開発が進みにくい。また、地域住民の間では、歴史的な街並みを守りたいという意識も強い。東京メトロの駅があるにもかかわらず、商業施設や高層ビルが少ないのは、こうした要因が重なっているからだ。

西ケ原は、江戸時代からの歴史と明治以来の学術・行政の伝統を色濃く残す街である。再開発の波に乗らず、静かな佇まいを保ち続ける西ケ原は、東京の中でも特異な存在と言えるだろう。

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