1582年6月2日、織田信長が明智光秀の謀反によって討たれたとされる「本能寺の変」。しかし歴史評論家の香原斗志氏は、最新の研究に基づき、光秀自身は本能寺におらず、別の場所で信長を討つための行動をとっていた可能性が高いと指摘する。
「光秀は本能寺にいなかった」という証言
香原氏によれば、光秀は本能寺から約8キロ南方の鳥羽(現在の京都市南区)にいたという。当時の記録や証言を精査すると、本能寺を襲撃したのは光秀本人ではなく、その配下の武将だった可能性が浮上する。光秀は信長を確実に討ち取るため、鳥羽から別の経路で信長の退路を断とうとしたとみられる。
四国説と信長の方針転換
本能寺の変の原因として現在最も有力視されているのが「四国説」だ。信長は天正6年(1578年)、長宗我部元親による四国全土の攻略を一時容認した。しかし後に方針を転換し、元親の四国制覇を認めないと宣言。この方針変更が光秀の立場を危うくし、謀反の動機になったとされる。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第25回(6月28日放送)でも、信長が光秀に「気が変わった」と告げる場面が描かれ、視聴者の注目を集めた。
香原氏は「光秀はパワハラまがいの叱責を何度も受け、出来心で信長を襲ったと誤解されがちだが、実際は周到に準備されていた」と強調する。光秀は信長と嫡男の信忠を討つ計画を練り、5日前には切腹を命じられた武将もいたという。
鳥羽にいた理由と新事実
光秀が鳥羽にいた理由について、香原氏は「信長が本能寺から逃げ出す可能性を考慮し、その退路を断つためだった」と解説する。鳥羽は水路や陸路の要衝であり、信長が京都から脱出する際の経路を押さえるには最適な場所だった。この新たな視点は、従来の「光秀=本能寺襲撃」というイメージを覆すものだ。
香原氏はさらに「当時の公家の日記などからも、光秀が本能寺にいなかったことを示唆する記録が残っている」と述べ、今後の研究の進展に期待を寄せている。



