2024年、邦文写植機発明100周年を記念し、写研とモリサワの共同開発により写研書体のOpenTypeフォント化が進んでいる。この節目に、フォント史研究家の雪朱里氏が、両社の創業者・石井茂吉と森澤信夫の歩みを紐解く連載の第88回では、1950年代前半の写植技術の転換点に光を当てる。
写植への社会的関心の高まり
石井茂吉が開発した「細明朝体(後の石井細明朝体LM-NKS)」は、1951年から1956年にかけて刊行された平凡社『児童百科事典』で初めて使用された。この事典は、写真植字による横組みとオフセット2色刷りを採用し、第10回毎日出版文化賞など複数の賞を受賞した。
しかし、それに先立つ1949年2月15日、印刷同友会は銀座の印刷図書館で「写真植字は活版にとってかわるか」と題した討論会を開催。講師には石井茂吉、東京印書館の和田栄吉・高橋周兵衛、凸版印刷の浅野長雅が招かれ、40人以上の技術者が参加した。この会について、のちに東京印書館社長となる下中直也は「当時の業界に衝撃を与える会であり、戦後、写植が社会に与え出した影響のはじまり」と語っている。茂吉はこの討論会に金一封(1万円)を寄付したというエピソードも残る。
MC型写植機の初使用をめぐる謎
従来、モリサワの社史『写真植字機五十年』(1974年)では、MC型写植機が最初に使われたのは1955年刊行の平凡社『世界大百科事典』第2巻からとされてきた。しかし雪朱里氏は、複数の一次資料を検証し、この記述に疑問を呈する。
下中直哉は『月刊印刷時報』(1984年2月号)で「MC型による『児童百科事典』(26年2月)は細明朝を使用し、写植文字の画期的なものとして評価を高めた」と明記。また、1962年の『芳岳』や1965年の『下中彌三郎事典』でも同様の記述があり、これらの資料を執筆した和田栄吉、下中直也、佐藤行雄はいずれも当時の現場に立ち会った人物である。さらに、来栖良夫も『月刊百科』(1968年3月号)でMC型の第一作品は『児童百科事典』だと述べている。
雪氏は「一度や二度であれば誤記の可能性もあるが、複数の現場関係者が繰り返し記述していることから、MC型の初使用は『児童百科事典』である可能性が高い」と指摘。『写真植字機五十年』の記述が後世の資料に影響を与えたと推測する。
資料間の食い違いと今後の検証
写研、モリサワ、平凡社、東京印書館の各社資料では、年代や記述内容にずれが見られる。特に写研とモリサワの資料は、本件に関して視線の偏りが大きいと雪氏は指摘する。次回以降、下中彌三郎とその周辺人物の記述を基準に時系列を整理し、1940年代後半から1950年代前半の写植技術の実像に迫る。
補足:石井太ゴシックの大がな・小がなの変遷
前回の連載で触れた「中ゴシック体」に関連し、読者から石井太ゴシック(BG)の大がな(KL)と小がな(KS)の開発時期について質問が寄せられた。写研の調査により、以下の事実が判明した。
- 戦前に開発されたのは大がな(KL)で、書体コードは「BG」→1971年ごろから「BG-KL」→1975年から「BG-A-KL」と変遷。
- 小がな(BG-KS)は大がなより後で、1974年ごろの見本帳から掲載開始。
- 石井ゴシックの他のウェイト(細ゴシックLG、中ゴシックMG)はKSが先に開発されたが、太ゴシック(BG)のみKLが先行。これは見出し用書体としてかなを大きく作ったためと推測される。
次回は8月4日更新予定。



