実像はわずか一文、創作が広げた「悲劇のヒロイン」像
江戸時代、恋慕する男性に会いたい一心で放火し、死罪となった10代の少女がいた。「八百屋お七」として知られるその娘は、歌舞伎や浄瑠璃で悲劇のヒロインとして語り継がれてきた。しかし、江戸文化風俗研究家の小林明氏は、現在広く知られているお七像の多くは後世の作家たちが書き換えた創作にすぎないと指摘する。
小林氏の著書『毒婦の日本史』(鉄人社)からの抜粋によれば、お七に関する信憑性のある記録は極めて少ない。天和2年(1682年)12月28日に発生した「天和の大火」は、江戸の出来事をまとめた『武江年表』に「十二月二十八日未下刻、駒込大円寺より出火。本郷・駒込・上野・下谷・池の端・神田・日本橋まで火が広がり、本所・深川に至って、夜に入って鎮火」と記録され、死者は推定3600人余りに上った。
お七の実像はわずか一文のみ、火災の記録が物語る
この火災で焼け出された一家に、15~16歳の娘「お七」がいた。一家は避難所となった近隣の寺に身を寄せ、他の被災者と共同生活を送った。火災の見聞録『天和笑委集』(貞享元年~元禄元年成立)によれば、「大円寺から出火。北へ半里(約2キロメートル)ほどの本郷森川町(現在の文京区本郷5~7丁目)に住んでいた八百屋のお七の一家も焼け出され、近くの正仙院という寺で避難生活を始めた」と記されている。
避難生活中、お七は正仙院の小姓・庄之助を見初めて恋仲になるが、家が再建されたため、翌年(天和3年/1683年)2月末頃までには寺を出て新生活に入った。しかし、お七は新しい生活に馴染めず、庄之助への恋しさから再び火事が起きれば一緒に暮らせると考え、放火に及んだ。ボヤで消し止められたが、火付は大罪であり、お七は奉行所で取り調べを受け、死罪を言い渡された。
小林氏によれば、お七に関する信頼できる同時代の記録は、『天和笑委集』のこの短い一文のみだという。その後の物語は、歌舞伎や浄瑠璃の作者たちが脚色し、悲劇のヒロイン像を創り上げたものである。
後世の作家たちが書き換えたお七像、聖地まで創作
お七の物語は、江戸時代中期以降、多くの作家によって取り上げられ、次第に「悲劇のヒロイン」としてのイメージが固定化された。特に、歌舞伎『松竹梅湯島掛額』や浄瑠璃『八百屋お七』などが人気を博し、お七は恋に命をかけた可憐な少女として描かれるようになった。
小林氏は、「お七をいいように書き換えた作家たちの罪」と指摘し、人気になるほど実像から遠ざかっていったと述べている。実際、お七の墓とされるものは東京・文京区の正仙院に残るが、その存在自体も謎に包まれており、墓だけが後世の創作を物語るように残されている。
お七の実像は、わずかな記録と多くの創作によって曖昧なままである。現代に伝わる「八百屋お七」像は、後世の作家たちが創り上げた虚像であり、真実は歴史の闇の中に埋もれている。



