山下清が愛した伊香保の露天風呂、湯で泳ぐ楽しさに魅了された放浪画家の足跡
山下清が愛した伊香保露天風呂、湯で泳ぐ楽しさに魅了

放浪の画家・山下清が愛した群馬県渋川市の伊香保温泉。1951年、29歳の時に無料で入れる温泉を求め、石段や曲がりくねった坂道を上ってたどり着いた露天風呂で、湯の中で泳ぐ人々の姿に驚き、やがて自らも夢中で泳いだという。

「まさか外に湯場があるとは思わなかった」

「まさか外に湯場があるとは思わなかった」と驚いた清は、湯の中で泳ぐ人たちの姿を見てさらにびっくりしたが、やがて自分も夢中になって泳ぎ始めた。よほど気に入ったらしく、翌日も食事以外は露天風呂で過ごしたという。

数年後に書いた文章なのに、まるで今、目の前で起きたことを記しているようなみずみずしさがある。甲南大の服部正教授(59)(美術史)は「天気や風景、会話などを克明に覚えていて、テープレコーダーを再生するように、どの場面からでも記憶を取り出せたのだと思う」と解説する。

「黄金の湯」で泳ぎの稽古

清が「泳ぎの稽古」をしていたのは、温泉街の外れの源泉地にある「伊香保露天風呂」。案内してくれた観光ガイドの会「遊友」の入澤勉会長(80)も、「湯の中で鬼ごっこをして遊んでいました」と、少年時代の思い出を話してくれた。

清が「土で汚れたような色」と表現した湯は、「黄金の湯」と呼ばれている。温泉に含まれる豊富な鉄分が空気に触れて酸化し、茶褐色になるためだ。露天風呂は現在、有料で大人600円。馬てい形の湯船には、さすがに泳いでいる人はいなかった。静かに源泉かけ流しの湯を味わっていると、ヒグラシの鳴き声が聞こえてきた。

文人たちの足跡と現代美術の拠点

温泉街を歩くと、歌碑や句碑など訪れた文人たちの足跡に出会う。この地に心を寄せた文人の筆頭は、「不如帰」などで知られる明治・大正期の小説家、徳冨蘆花だろう。何度も足を運び、終焉の地となった定宿の離れが移築された徳冨蘆花記念文学館に足を運ぶと、いかに伊香保を愛していたかを思い知らされる。

渋川市には個性的な現代美術の拠点がある。JR渋川駅から徒歩約10分の長屋式アパートの一室を利用したギャラリー「CONCEPT SPACE」は、美術家の福田篤夫さん(68)が制作と並行して40年以上にわたって現代美術の企画展示を続けている。開廊した1982年当初は「田舎で現代美術なんて無謀だ」と周りから言われていたが、リチャード・セラ、カール・アンドレ、トーマス・ルフら世界的な芸術家の個展を次々に実現させてきた。

榛名山を望む緑豊かな高原にある原美術館ARCは、東京・品川の原美術館の別館「ハラ ミュージアム アーク」として88年に開館。2021年の原美術館の閉館に伴い、両館の活動を統合して現在の名前に変えて新たなスタートを切った。ジャクソン・ポロックやアンディ・ウォーホルら20世紀美術の巨匠から、草間彌生、奈良美智ら現代作家まで国内外の作品を収蔵する。

「自然の中で作品を見せることが、美術館のコンセプトです」と青野和子館長。展示室を出ると心地よい風が吹き抜け、屋外彫刻を眺めながらカップルや家族連れがゆっくりと歩いていた。

渋川には現代美術を自ら楽しみ、作品を見せる人たちがいる。山下清が遊び、文人たちが愛した温泉街から少し足を延ばしたところで、文化の現在に触れた。