1949年(昭和24年)、石井茂吉にとって写植機の製作はようやく軌道に乗り始めた年だった。しかし、後半になると三女・裕子の病と長男・圭吉の死去が重なり、さらに厳しい徴税が追い打ちをかける。後継者を失った茂吉は、森澤信夫に会社の合併を提案する。
1949年、写植機製作の転機
1949年春、大阪の信夫のもとへ新型のMC型写真植字機を見に来た茂吉は、それを受け入れず、「機械のよしあしは、使ってみなければわからない」と言い残して東京に戻っていった。
しかし、この年のある時期、写真植字機研究所から戦後一時期凸版印刷に移籍していた浅野長雅が、同社が導入予定の10台分の写真植字機の催告のため、大阪の信夫の工場に出張した。信夫からMC型写植機の設計図を見せられた浅野は、「レンズ系の動かない、ドラムが動いていた画期的なもの」と肯定的な感想を抱いた。
同年10月、大阪朝日新聞の工務関係重役・米村壮宏から信夫に呼び出しがかかった。米村は「いまの写植機では不便な点があるため、朝日式の写植機を設計している。これがその図面だ……」と設計図を広げようとした。信夫はあわてて「それを開けるのは待ってください」と押し留め、「私のところに、MC型という新しい写植機ができています。それを一度、検討してみてもらえませんか」と提案した。
米村はすぐに信夫の工場にやってきてMC型を調べ、「これならよい」と言って社に戻った。まもなく、全国の朝日新聞社(東京、大阪、中部〈名古屋〉、西部〈九州〉か)で計5台のMC型写植機を納入してほしいと注文が入った。後日談として、米村がこのとき広げようとした朝日式写植機は、MC型の登場により実現しなかったものの、すぐれた設計であったらしいと信夫は述懐していたという。
激務のしわ寄せと裕子の病
同じ1949年、東京・大塚の茂吉の工場は、レンズや文字盤の製作に追われっぱなしの状態だった。出荷しなければならない機械の台数が増えるなか、連日、夜の11時、12時まで作業をしなければ間に合わない状況だった。それはうれしい悲鳴である一方で、激務のしわ寄せは確実にきていた。
6月、茂吉の三女・裕子が体調を崩した。裕子は、昼は新書体の原字制作にはげむ父と、兄・圭吉を看病する母の負担を少しでも軽くしようと、写真植字機研究所の業務全般に奔走していた。夜は所員たちの帰ったあとで、ひとり仕事場に残り、文字盤の貼り合わせ作業やピンホールの墨入れ、光源電球のコイル巻きに取り組んだ。そうした無理が、いつしか彼女の身体を蝕んでいた。
裕子は寝込んだ。当初は風邪かと思われたが、38~39度の熱がいつまでも下がらない。当時「起死回生の万能薬」といわれたペニシリンの注射も受けたが、効果はなく、やがて喀血した。診断は「乾酪性肺炎(結核性肺炎の一種)」で、レントゲン写真に写った右肺は白くにごっていた。
乾酪性肺炎は、罹患した多くの人が2カ月ほどで亡くなるといわれる病気だった。裕子を診た医者は、病状の進行がはやく悪性であることから、治る見込みがないことを茂吉夫妻にほのめかし、絶対安静と伝えた。しかし裕子は強い意志で病気に立ち向かい、医者の指示を忠実に守り、身体と心の安静につとめた。ひと月ほど経つと喀血が止まり、熱も少しずつ引いてきた。秋に入るころには気胸療法を受けるため、四谷駅近くにあった大蔵省診療所に通院できるまでに回復した。
圭吉の死と追い詰められる茂吉
いっぽう、圭吉の病床生活はすでに2年に及んでいた。この年の11月19日に彼は26歳の誕生日を迎えたが、やがて冬を迎え寒さが厳しくなるにつれ、衰弱が目立ち始めた。そうして年の暮れも押しせまった12月29日、圭吉は帰らぬ人となった。
茂吉はこれまでも正直に申告納税してきたが、税務署員は茂吉の申告を信用せず、一方的に高額の査定を押しつけてきた。写真植字機研究所が個人企業であることと、記帳処理の不明確さが税吏の印象を悪くしたようだ。彼らは高圧的な態度をとり、茂吉がどんなにていねいに説明してもそれを老獪な詭弁だと受け取って、やみくもに納税を迫ってきた。見かねたいくが「そんな駆け引きができる人ではありません。お疑いでしたら、どこを調べていただいても構いません」と横からとりなしても、税吏たちは聞く耳をもたなかった。圭吉が息を引き取ろうとしていた12月29日にも税吏たちは強談判にやって来て、「明日から税務署は休みになる。今日中になんとしても払え」と粘られたのには、茂吉も途方に暮れた。
信夫への合併提案
そんな12月29日、信夫は茂吉との打ち合わせのため上京した。大塚駅で電車を降りると、銀行の前に茂吉が立っていた。なんだか様子がおかしい。ぼんやりしているようだ。「こんなところでなにをしておられる」と信夫が声をかけると、茂吉は驚いて顔を上げ、「森澤くんか。……実は、圭吉が死んだ。これは圭吉の引き合わせだろうか」と言った。思いがけない出来事に、信夫は言葉を失った。茂吉の息子・圭吉が亡くなったその日に、そうとは知らずに自分は来てしまったのか。信夫は、茂吉に相談ごとをするつもりで上京していたが、それは圭吉の通夜に変わってしまった。
かつて茂吉は、丑二、宣子、緑郎の3人の子どもを幼くして失っている。そして今回は、茂吉の後継者と目されていた圭吉が、26歳の若さで旅立ってしまった。すでに62歳となる茂吉には、圭吉の死がどれほどこたえたかしれない。さらに茂吉の心には、徴税の厳しさが重くのしかかっていた。どんなに正直に申告しても、税吏からの理解が得られない。だとすれば、写真植字機研究所を税金面で優遇措置のある法人組織にして、仕事のやりやすい体制を整えたほうがよいだろう。しかし、経営を担うのが自分一人では心もとない。
圭吉が亡くなったいま、裕子は茂吉の仕事を手伝っているとはいえ、いずれ嫁に行くだろう。末っ子の不二雄は14歳になったばかりだ。裕子にも不二雄にもすぐには後を託せないとすると、どうすべきなのだろう。我が身の努力でここまで築き上げてきたものを、たいして知りもしない人に委ねるわけにもいかない。茂吉の選択肢は、ひとりしかいなかった。信夫である。
「森澤くん、圭吉のことは、私の骨身にしみてこたえた。そこで今後の相談なのだが……。現在われわれは東京と大阪で別々にやっているが、互いの会社を一つにし、製造から販売までを一貫させないか」
茂吉は、信夫に相談した。当面は茂吉が代表者となるが、自分は60歳を越える身だ。だからやがては、自分より13歳若い信夫がすべてを引き継ぐという提案だった。次回は10月13日更新予定。



