国語の教科書に登場する文豪たちは、どこか近寄りがたい知識人に思えるかもしれない。しかし、銀座での彼らは“別の意味”で近寄りがたい人たちであった。酔っぱらって他人に絡み、椅子を投げ合う大喧嘩をし、お気に入りの女給を人気投票で勝たせるために大量のビールを買い込む……明治から昭和にかけて、日本を代表する文豪たちは銀座のカフェーやバーに集まり、数々の騒動を巻き起こしていた。
文化人の社交場は「喧嘩の現場」でもあった
明治5(1872)年に新橋と横浜を繋ぐ鉄道が開通したことを契機に、銀座は空前の賑わいを見せていた。通りには西欧風の美しい赤煉瓦街がどこまでも続き、勧工場(かんこうば)と呼ばれた今の百貨店の先駆けには、流行に敏感な若者たちがこぞって押し寄せた。流行の発信地となった銀座には当時の文豪達も足繁く通い、いたるところで(おもに酒がからんで)事件を起こしている。
明治44(1911)年には日本で最初のカフェーといわれる「カフェープランタン」が銀座に開店。会員には森鷗外や永井荷風、谷崎潤一郎に北原白秋、正宗白鳥や高村光太郎など錚々たるメンバーが名を連ねた。当初は会員制で年会費を払うシステムだったが、当時の作家にそんなものを律儀に払う人などいるわけもなく、すぐに年会費システムは無くなった。当時の「カフェー」とは現代でいうところの「喫茶店」ではなく、給仕する女性たちがお酒の相手をしてくれるような店で、珍しい洋酒などもズラリと取り揃えていた。
カフェーで給仕する女性の事を当時は「女給」と呼んでいたが、この「女給」という言葉を最初に使い出したのもカフェープランタンだといわれている。もともとは「女ボーイ」という言葉が使われていたが、新聞に募集広告を出すときに文字数がオーバーしてしまい、仕方なく「女給」という言葉を使ったのが始まりだったという。
ビール150本分の“推し活”に走った菊池寛
菊池寛は、お気に入りの女給を人気投票で勝たせるために、自らビールを150本も注文したという逸話が残っている。これはまさに現代の「推し活」そのもの。当時のカフェーでは女給の人気投票が行われ、客がビールを注文するとその女給に票が入る仕組みだった。菊池寛は、自分の推しを1位にするため、大量のビールを買い込んだのだ。この話は、文豪たちがどれほど銀座のカフェーに熱中していたかを物語っている。
太宰治は「俺も撮れ」と絡み酒
太宰治もまた、銀座で数々の“やらかし”を残している。ある時、太宰は酔って店にいた他の客に絡み、写真を撮っている人に対して「俺も撮れ」と要求したという。さらに、その写真を気に入って「現像してくれ」と無理やり頼み込んだ。太宰の絡み酒は有名で、銀座のバーでは彼の奇行がしばしば話題になった。彼の作品に描かれる繊細な感性とは裏腹に、実生活では豪快で破天荒な一面を持っていたことが伺える。
三島由紀夫が「最後の晩餐」に選んだ店
三島由紀夫も銀座の常連だった。彼が「最後の晩餐」に選んだとされる店が銀座にあり、今も営業を続けている。三島はこの店で、自決の前夜に仲間と最後の酒を酌み交わしたと言われている。店の雰囲気は当時と変わらず、文豪たちの足跡を感じることができる。銀座には、このように文豪たちの“事件現場”が多く残っており、散歩しながら彼らの素顔に触れることができる。
本記事は『酒場・下宿・路地をめぐる46人の「やらかしと逸話」 文豪てくてく散歩』より一部抜粋・書き下ろし。文豪たちの知られざる素顔を追いながら、銀座の街を歩いてみたい。



