三重県松阪市出身の歌手、あべ静江さん(74)は、中学・高校時代、自宅近くの松坂城跡をよく散策し、石段に腰を下ろしては見えない将来に悩み、考え、あすを夢みる思春期を過ごした。あべさんは「頭の中にある疑問はきっと、将来の財産になる」と、青春まっただなかの君に思い悩むことの大切さを語りかける。
松坂城跡での日々と昭和の松阪
あべさんの実家は同市中町の商店街(現よいほモール)の一角で小間物店を営んでいた。昭和の松阪は活気にあふれ、小学生の頃、商店街の祭りイベントの景品に「ライオンの子ども」が採用されたという。あべさんの記憶によれば「景品を引き当てた人は『さすがに困る』と固辞された」。提案した店舗の主人が子ライオンを引き取り、成長とともに飼いきれなくなって手放し、城跡の動物舎で飼育されたそうだ。
奇妙奇天烈な大人や家族ぐるみの付き合いだった商店主らに囲まれ、叱られたり褒められたり、あべさんは大いに刺激を受けた。
ネット社会への警鐘
そんな身からすると、ネット社会に生きる若者世代が気掛かりに映る。疑問や悩みはスマートフォンの操作で答えが速攻で返ってくる。自分で考えなくても回答がある。
「そのイージーさは便利だけど、ちょっと怖い。誤報もある。答えの正誤をジャッジする力が君にあるのかどうか」「自分の意思よりも、ネット社会の常識に動かされたとき、生涯、背負うことになる間違いが起こるかもしれない」
芸能界への道とデビュー
父はバンドマンで母は歌手だった。芸能界に生きる両親を見てきたが、その世界に行く気はなかった。かといって目標もない。「何もないから前へ進む」。10代後半のあべさんの姿だ。高田高校では弁論部で活動し、訴える、表現することが面白かった。短大進学後に転機が訪れ、短大に通う傍ら名古屋にあったTTC(テレビタレントセンター)に通った。授業はパントマイム、日舞、洋舞、狂言など多岐にわたり、伝える日本語、トーク力、表現力を徹底的に磨いた。
卒業公演を済ました短大2年の時、名古屋の民放ラジオ2局からディスクジョッキー(DJ)に抜てきされた。DJはTTCの延長線上にあり、「芸能界はジャッジしていただく職業。ダメだったら、私がクビになるだけだ。クビになれば松阪に帰ればいい」と当時19歳で覚悟と潔さを身につけていた。
DJとしてブレイクし、1973年5月、「コーヒーショップで」(作詞・阿久悠、作曲・三木たかし)で歌手デビュー。その詞に「城跡の石段に腰おろし本を読み涙する人もいた」と、自身の青春時代が描かれていることに驚いた。後年、阿久先生に「私の生い立ちも調べて詞を書いてくださったのですか」と尋ねたが、阿久先生は「えっ、何のことかな?」と返したという。
あべさんは「君たちと私の時代の違いをどうつなげればいいのか、それは分からない。でも世間や社会に流されたくないという感情は同じではないかな。『今だけの勉強』というものはない。勉強したことは膨らんでいく。人生ってそういうものよ」と語った。



