羽柴(豊臣)秀吉が徳川家康と織田信長の次男・信雄と争った小牧・長久手の戦い(1584年)のさなかに、家臣の脇坂安治らに送った書状が2通見つかった。家康側から和議が申し込まれたとの内容で、専門家は「小牧・長久手の戦いは家康側が優位だったとする通説が見直され、秀吉側を優勢とする最近の研究を補強する史料」としている。
発見された書状の内容
安治は、羽柴秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で活躍した「七本槍」の一人。書状はいずれも秀吉の朱印があり、脇坂家が藩主を務めた龍野藩があった兵庫県たつの市の旧家から、今年5月に見つかった。
1通目は天正12年(1584年)4月21日付で、秀吉側の武将だった池田恒興と森長可が討ち死にしたことに触れ、「陣地の普請を固めているので心配するな」と記述。伊賀で後方支援をしていた安治に「材木は河端まで出しておけ」などと指示している。
和議の申し入れを記す
もう1通は同年9月6日付で、「小牧の西へ押し廻り、国中に放火し、砦を数か所作らせて、さらに戦おうと思っていたら、信雄・家康から人質を出すのでと和議が申し込まれた」と伝達。和議に同意しないでいたところ、信長の弟や家康の家臣まで人質に出すと言ってきたとつづっている。
東京大史料編纂所の村井祐樹准教授(日本中世史)は「秀吉側は局地戦では負けたものの、動揺していないことがわかる。家康側から和議を申し入れたこともはっきりした」と話す。書状は10月24日から、たつの市立龍野歴史文化資料館で開かれる企画展で公開される。



