彼女が足早に坂を下りていく。小さくなっていく背中を見ながら、今起こったことが現実なのかそうじゃないのか、美貴子には判別がつかなかった。
一輪の薔薇と、白いレースのハンカチを鞄の奥にしまい、何食わぬ顔をして家に帰った。それが母に見つかればやっかいなことになるという予感があった。ハンカチは入浴中に洗い、クローゼットのハンガーにかけて乾かした。薔薇はライティングデスクの引き出しにしまったが、不思議なことにいつまで経っても枯れなかった。いつか芳子に再び会うことがあれば、このハンカチを返さなければ、と鞄に入れていたが、その日以来、彼女に会うことはなかった。
川島芳子の存在と大連の町の事情
川島芳子が男装の麗人、東洋のマタハリと呼ばれていることを美貴子が知るのは、それよりもずっと後のことだった。大連という町の事情や、そこに住む人たちの事情も、成長するにつれ、美貴子は少しずつ理解するようになっていった。
母と市電に乗っていると、彼女がふいに「このあたりに一人で来てはいけませんよ」と強く言うことがあった。まわりを見ると、美貴子が住む光風台とは違い、古い家屋が並び、中国人の姿が多いようだった。車窓から、一人の中国人が、もう一人の中国人を激しく叱責しているのが見えた。さらに目をやると、中国人に向かって、日本人らしきおじさんが、険しい顔つきで何かを大声で叫んでいる姿も見えた。
日本人と中国人の暮らしの区別
大連では裕福な日本人が住む町と、貧しい中国人が住む町は明確に区切られていた。美貴子の家にいる使用人たちも中国人だ。日本人が上で、中国人が下にいる。元々、ここは中国の場所なのに? 戦争で中国が負けたから? 父も母も中国人のことを悪く言うことはなかったが、使用人として彼らを使っているのは事実で、そのことを考え始めると美貴子の頭は混乱する。
人間に上下があるのだろうか。中国の人たちが自分より劣っているとは到底思えない。父が床の間のある和室で家長の顔で座ることと同じように、日本人のほうが中国人よりも優れているという考えにも美貴子は同意することはできなかった。
町で見た暴力と美貴子の思い
町に出れば、荒っぽい男の子たちが中国人の子どもたちをただ無意味に殴っている場面にも度々遭遇した。殴られても、中国人の子どもたちは反撃することなく逃げていく。勝ち誇ったような日本人の男の子の顔を見るのも嫌だった。何か言ってやりたかったが、自分に暴力が向かってくることが怖かった。だから目を瞑り、口を噤んだ。
そんな光景を目にしてもなお、美貴子は自分のこの幸せな日々が、この大連という町が永遠に続くのだと思っていた。確かにそれは美貴子が思っているとおりだった。ある時が来るまでは。