『豊臣兄弟!』第37話で蜂須賀正勝が退場 注目度75.2%のラスト宴
『豊臣兄弟!』第37話正勝退場 注目度75.2%

テレビ画面を注視していたかどうかが分かる視聴データを独自に取得・分析するREVISIOは、9月27日に放送されたNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(総合 毎週日曜20:00~ ほか)の第37話「秀長の国」の視聴分析をまとめた。

正勝の最後の宴に注目集中

最も注目されたのは20時07分で、注目度75.2%。秀長(仲野太賀)が、秀吉(池松壮亮)と長康(渋谷謙人)と共に、正勝(高橋努)と最後の一夜を過ごすシーンだ。

人の気配が消えた大坂城の広間で、正勝は1人杯を傾けていた。「はあ…。痛!」先の四国攻めで受けた傷がうずき、その手から杯が落ちる。かなり痛むのか正勝はうめき声を上げた。そこへ秀吉が秀長、長康を連れてやって来た。「おお、何じゃ3人そろって」正勝は弾んだ声で3人を迎えると、近頃は古傷が痛み、かつてのようには動けない、年には勝てないと包み隠さず打ち明けた。秀長はそれでも正勝を引き留めようとした。しかし正勝の決意は固い。すでに今が引き際と決めているのだ。

「この上ない、幸せじゃ」

「今日まで、お主らと共に縦横無尽に日の本を駆け回り、さまざまな景色を見せてもろうた。全身全霊でお仕えしてきたという自負がある。それは誰にも負けん」正勝の言葉を3人は黙って聞いている。「わしの夢はのう、お主らの夢をかなえることじゃ。そうじゃろ?」正勝の一言に長康も深くうなずいた。長康も正勝と同様、これまで全身全霊で秀吉に仕えてきたのだ。

「ただの川並衆だったわしが城持ちどころか、大名にまでなるとはのう。ふふふふ…」正勝はこれまでの思い出を振り返り、目頭を熱くした。そして3人に背を向けると、「この上ない、幸せじゃ。お主らに、わしの人生を懸けてよかった。礼を言う」と言った。正勝の言葉に秀吉は折れ、ようやく隠居を認める。

「よし。ではこよいは我らの新たな門出の祝いじゃ。まだまだ、共にこの世を見返してやろう」場のしんみりとした空気を打ち払うように、秀吉が明るく声を張り上げた。秀吉の目には一筋の涙が流れている。「兄ぃ!」長康が正勝の肩を抱き、「今宵はたんと飲むぞー!」と大声で宣言すると、「おおー!」と秀長も負けじと応じた。それを合図に襖が開き、多くの家臣たちがなだれ込んできた。あっという間に広間が占拠される。これが長年苦楽を共に分かち合った4人の、最後の宴となった。半年後、正勝は病に倒れ、この世を去った。

SNSでは惜しむ声が続出

このシーンは、秀吉の股肱の臣・蜂須賀正勝の退場に、視聴者の注目が集まったと考えられる。四国と北国の平定を終えた秀吉は畿内の領地分配を行った。四国攻めで奮戦した正勝は阿波一国を与えられるが、正勝はこれを固辞。正勝の希望により阿波は嫡男である蜂須賀家政に与えられることとなる。川並衆の頭領だった頃の正勝は戦で負け続きだった。しかし秀吉に会うと一転、数々の軍功を挙げる。しかし、数々の戦場を駆け抜けてきた正勝は自身の限界を感じて隠居を決意した。

多くの苦難を共に乗り越えてきた秀長と秀吉、そして義兄弟の前野長康は寂しさを感じるが、正勝の決意を尊重して宴を楽しんだ。そしてその半年後、病でこの世を去る。61歳だった。

SNSでは「初対面の時あんなにゴロツキみたいな感じだったのに、ここまでついて来たのすごいな」「墨俣の一夜城なつかしいな。正勝と長康に会っていなかったら秀吉の今もなかったんだろうな」「4人が昔のままの口調で話しているのがエモいな。でもこのドラマの癒し枠がまた居なくなってしまうの寂しいな」と、正勝の退場を惜しむコメントが多く見られた。

史実の正勝と蜂須賀家のその後

作中での正勝は秀吉の右腕として数々の戦功を挙げたが、史実では調略に長けており、毛利氏や四国出兵における長宗我部氏との交渉などで大きく貢献した。阿波を嫡男・蜂須賀家政に与えるよう願い出たのはこれまで通り秀吉の側近として働き続けるためだったと考えられている。その後、蜂須賀家は徳島藩主として江戸時代を通じて続き、明治以降は華族となった。

家政は藤堂高虎(佳久創)と同じく、1570(元亀元)年の姉川の戦いで初陣を飾った。13歳という若さだったと伝わっている。1575(天正3)年には秀吉の黄母衣衆に抜擢されると、その後も順調に武功を重ね、阿波を与えられたのは28歳の頃だった。さらに秀吉の命令で徳島城の築城にも着手するがこれには長宗我部元親(磯部寛之)や小早川隆景(山本浩司)、さらに比叡山の僧侶も協力したと伝わっている。後年には伊達政宗から一筋縄ではいかない老獪な政治手腕を「阿波の古狸」と評されたという逸話が残っている。

正勝の次女・糸姫は1584(天正12)年に秀吉の養女となり、黒田官兵衛(倉悠貴)の嫡男・黒田長政と結婚した。この時、糸姫は14歳、長政は17歳だった。2人の間には娘の菊が生まれる。のちに菊は黒田家臣の井上之房の子・井上庸名に嫁いだ。しかし、1598(慶長3)年に秀吉が亡くなると、長政は徳川家康との関係を急速に強めていく。そして家康との関係をさらに強固にするため、家康の養女である栄姫を長政の正室に迎える話が進んだ。

そして1600(慶長5)年に長政が徳川家康の会津征伐に従う際に2人は離縁する。これにより黒田家と蜂須賀家は1727(享保12)年に和解するまで127年にわたって不仲となった。