染織の伝統超え独自の美を追求 山鹿清華生誕140年記念展、京都市京セラ美術館で開催中
染織の伝統超え独自の美を追求 山鹿清華生誕140年記念展

京都市京セラ美術館で開かれている「生誕140年記念 染織家 山鹿清華(やまがせいか)-宙翔ぶイマジネーション」(産経新聞社など主催)は、分業で確立されていた染織工芸に、一人の手作業で作品制作する手法を持ち込んだ染織作家の創造性を振り返る展覧会だ。伝統を乗り越え、画期的な美術作品を生み出した山鹿の歩んだ道と作品を紹介する。

全工程を一人で担う「手織錦」

観光都市・京都は染織工芸の都でもある。その地で生まれた山鹿清華(1885~1981年)は、若いころから日本画とともに織物図案を学んだ。20代半ば、山鹿は当時の京都の美術工芸界を牽引する画家・図案家の神坂雪佳(かみさかせっか)に師事した。雪佳は20世紀初頭に欧州を視察し、図案が独立した美術として扱われていることを知る人物だった。

明治期、京都・西陣の染織工芸は図案、糸の染色・選択、織りと工程が分かれ、それぞれに担当する職人がおり、図案家も一職人に過ぎなかった。大正期になると、京都の工芸界には陶芸などで制作の全工程を一人で担う個人作家が登場する。彼らは工芸を美術の一分野として確立しようと自らの理念を形にした。

そうした流れの中、師・雪佳の支援を背にした山鹿も作品の構想を図案化し、糸の選択からつづれ織りの工程の全てを一人でまかなって絵画のような緻密さをもつ美術作品を作り、自ら「手織錦(ておりにしき)」と名付けた。

異例のテーマに挑む

昭和に入り、官製展覧会である帝展に美術工芸の部門が設けられると、すかさず手織錦壁掛《和蘭陀船(おらんだせん)》を出品。特選を獲得し、意を強くする。美術と工芸の橋渡しをする手織錦を生み出したことで、山鹿の創造性はますますふくらんだ。まず、それまでの染織界で扱われなかったテーマをあえて選び取った。デザイン感覚は研究をしていた古裂(こぎれ)から吸収したと考えられるが、元来、山鹿は旺盛な好奇心の持ち主。2度の中国大陸への旅では、訪れた都市の景観を背景にラクダの親子を手前に配したエキゾチックな構図の《熱河(ねっか)》や南満州鉄道特急「あじあ」が力強く走行する姿を表現した《驀進(ばくしん)》など、染織の世界でほぼ扱われることのないモチーフを絵画のように織り上げた。

科学の進歩にも敏感で、戦前の日本に登場した家庭用電気冷蔵庫の内部を克明に表現した《冷蔵果》や、戦後の宇宙開発を題材にした《旅》、復興のシンボル《東京タワー》など、斬新なものに挑んでいる。「残っている88冊のスケッチ帳を見ると、とても勉強熱心な人で、陶磁器の書籍や目録、写真集、グラビア雑誌などを記録として写し取っていることがわかります」と担当学芸員の陳鶯(ちんよう)さん。いつまでも画家の自由な魂を持ち続けていた証しであろう。

表現を模索し続けた生涯

ほかにも、挑戦を試みている。大型客船「ぶらじる丸」や京都の「都ホテル」(現ウェスティン都ホテル京都)では壁面装飾に取り組んだ。京都・祇園祭の山鉾(やまほこ)や滋賀・長浜曳山(ひきやま)祭の曳山の懸装品、東京宝塚劇場の緞帳(どんちょう)など、ハレの場を彩る品々も制作した。さらに、一般的な色糸だけでなくビニールひもや釣り糸を用いて、よりよい表現を模索した。

果てしなく挑み続けた山鹿は84歳で文化功労者として顕彰された。その創造性は織物の伝統を乗り越え、もはや現代美術の領域に踏み入っているといっても過言ではない。

同展は12月20日まで開催。詳細は同館サイト。