文芸評論に再び科学精神が導入された。樫原辰郎著『バグるラスコーリニコフ』(晶文社・2530円)は、進化心理学や人工知能(AI)など最新科学を総動員し、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み直す意欲作だ。文学理論の基盤だった精神分析やマルクス経済学が時代遅れとなる中、海外では精読や書誌学の復権、進化心理学やAIの導入が進んでいる。本書は批評テクノロジーの総入れ替えと再武装を図った。
海洋堂参加の異色の経歴
著者は海洋堂の立ち上げに参加し、映画監督から文筆に転じた異色の経歴を持つ。『「痴人の愛」を歩く』で日本近代文学の傑作評論を物し、進化心理学の原書を読み漁り『ロックの正体』を著した博覧強記の人物だ。本書ではその知識を駆使しながらも、難解さは皆無。落語の名人芸を思わせる自在な語りが読者を引き込む。
『罪と罰』を喜劇として読む
発端は「ドストエフスキーは喜劇作家ではないか」という気づき。ミハイル・バフチンが既に提示した見解を、著者はさらに推し進める。『白夜』や『貧しき人々』を前哨戦として喜劇性を提示した上で、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを「オカルティックなイデオロギー崇拝で認知のバグった痛い無職」と喝破する。娼婦ソーニャとの関係を「ボーイ・ミーツ・ガール」と見抜き、最新科学で解き明かす。
行動経済学で読む古典
ソーニャは階級上昇を果たし、ラスコーリニコフも自意識の迷走の果てに彼女を得て怒濤のハッピーエンドを迎える。著者は身も蓋もないプラグマティズムで、重厚な古典の喜劇的骨格を暴き出していく。行動経済学や認知科学はビジネスパーソンにとって身近かもしれないが、ウンベルト・エーコがマッキントッシュに狂喜して『フーコーの振り子』を執筆したように、テクノロジーは常に文学にイノベーションをもたらす。旧態依然とした言説を突き崩し、人間行動のリアルを照射する本書は、文芸評論を根本から刷新する知の爆弾だ。