レッツノート迷走の時代:VAIO衝撃と軌道修正への道
レッツノート迷走の時代:VAIO衝撃と軌道修正

1996年6月に発売された初代レッツノート「AL-N1」は、発売直後から大きな話題を集めた。8月には秋までの生産予定台数をすべて売り切り、店頭からレッツノートが消えるほどの人気ぶりだった。第1号機は型番「T512」で、CPUにPentium 120MHzを搭載。想定を上回る完売を受け、同年10月にはCPUをPentium 133MHzにアップグレードした「T513」を投入。さらに1997年2月にはPentium 150MHz搭載の「T515」を発売し、サブノートを代表するパソコンとしての地盤を築き始めた。

光学式トラックボールの登場と「質実剛健」の進化

初代発売からちょうど1年後の1997年6月、レッツノートの代名詞となる光学式トラックボールを搭載した「AL-N2」が登場。同年11月には8.4型液晶、約1kg、8時間駆動の「AL-N4」を投入。1998年6月にはベストバランスノートと位置づけた「CF-S21」を発売し、液晶部キャビネットにマグネシウム合金を採用、各種インターフェースを搭載する基本構成を確立。MMX Pentium 200MHz搭載で約5時間のバッテリー駆動を達成し、大きな注目を集めた。

レッツノートは発売以来、ビジネスモバイル用途に特化し、「質実剛健」の姿勢で進化を続けた。Windows 95の登場で国内パソコン市場が右肩上がりに成長し、1人1台の環境が整い始めたことも、サブノート需要拡大の追い風となった。

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ソニーVAIOの衝撃と「銀パソ」ブーム

しかし、レッツノートの事業に激震が走る出来事が発生する。1997年10月にソニーが発売した「VAIO NOTE 505(PCG-505)」である。同製品は世界で初めてボディ全体にマグネシウム合金を採用し、大幅な薄型化と軽量化に成功。筐体カラーから「銀パソ」と呼ばれるムーブメントを巻き起こし、サブノート市場を席巻した。

パナソニックのレッツノートとソニーのVAIO NOTEのモノづくりは対極的だった。レッツノートはビジネスモバイルに必要なインターフェースを内蔵し、長時間バッテリー駆動と堅牢性を実現。一方、VAIOは薄型化を追求し洗練されたデザインを採用したため、シリアルポートやプリンタポートはドッキングステーションで対応。移動先での使い勝手ではレッツノートが圧倒的だったが、多くのユーザーはデザイン性に優れたVAIO NOTE 505を選んだ。

VAIOの躍進は続き、1998年9月には小型CCDカメラを搭載したミニノート「PCG-C1」を発売。ソニーが得意とするAV機能を生かしたビジュアルコミュニケーションの可能性を提案した。

レッツノートの「迷走」が始まる

この動きにレッツノートの開発チームは焦りを感じた。サブノート市場を開拓してきた自負があったが、質実剛健のモノづくりやデザインがVAIOの登場で時代遅れと捉えられる状況に陥った。量販店ではVAIOが指名買いされる一方、レッツノートには薄型化やデザイン改善、新機能の搭載を求める声が高まった。

パナソニックは市場の声に応え、1998年10月にA5サイズでカメラユニットや携帯電話インターフェースを搭載した「レッツノート・コム CF-C33」を発売。同年11月にはトラックボールを廃止しタッチパッドを採用したスリムモバイル「CF-S51」、12月にはスリムボディに着脱式ドライブを採用した「CF-A44」を投入。1999年9月には「CF-A1」を発売し、PIAFS(PHS)による宅内ワイヤレスとピアノのような光沢天板を採用。ロゴも現在のシャープなデザインに変更した。

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しかし、こうした一連の動きをレッツラー(レッツノートユーザー)たちは厳しい目で見ていた。「コンセプトがブレはじめている」との指摘が相次ぎ、「カタログスペック重視の優等生的なパソコンばかり」「尖ったものがなく、他社の攻勢に押され存在感が薄れている」との声も上がった。社内でも「お客様の声を聞き過ぎた結果、ポリシーが崩れている」「一貫したコンセプトがない」との見方が広がった。

トラックボールの搭載を1999年から2002年の間に一度廃止したが、9カ月後に復活。1年後に再び廃止し、9カ月後に復活、さらに8カ月後に完全終焉。この慌ただしさは「迷走」の象徴だった。

もう一つの迷走:AVノート「HITO」の失敗

同時期、パナソニックはAVノートパソコン「HITO(人)」を1997年11月に発売。製品名は「Human Interface Technology Operation」の頭文字から。1997年2月に設立したパナソニックコンピュータカンパニーが担当し、レッツノートの開発者も異動した。しかし、HITOはレッツノートとはまったく異なる流れで開発された。国内生産ではなく台湾のODMで生産するコンシューマパソコンで、AV機能の追求と低価格が役割だった。

AV機能で先行するVAIOに追随する姿勢は明らかだったが、HITOは対抗策になりえなかった。台湾ODMの活用は先進技術の採用で優位性を発揮したが、大きな課題は品質。パナソニックはIBMパソコンの受託生産経験から高い品質基準を持っており、仕様変更を加えるうちにコストメリットを失い、ODM活用の意味がなくなった。VAIOはスタイリッシュなブランドイメージとAVに強い世界観を構築したが、パナソニックはできなかった。HITOは2000年11月に第1号を発売し後継機も投入したが、短期間で終了。AVデスクトップパソコンの開発も一次試作まで進んだが投入は見送られた。

復活への胎動:新プロジェクトの始動

レッツノート事業は1999年度から黒字化し成果は上がっていたが、「迷走」状態は確かだった。パナソニックらしさがパソコン事業で発揮できず、事業継続や将来成長への不透明感が生まれていた。

このころ、パナソニック全体でパソコン事業の組織統一が進んだ。1997年2月に情報周辺機器事業部(旧特別プロジェクト室)と情報機器事業部が統合しパーソナルコンピュータ事業部に。2002年2月にはパーソナルコンピュータ事業部、パナソニックコンピュータカンパニー、3DOを担当していたインタラクティブメディア事業が統合し、ITプロダクツ事業部が発足。パナソニックグループとして初めてパソコン事業を一本化した。

組織統一の中で、2001年夏に社内で新たなプロジェクトチームが立ち上がった。目標はレッツノートの「復活」とモバイルノート市場でのトップシェア獲得。これが「CF-R1」の誕生につながっていく。