帰宅途中の駅構内で、下りのエスカレーターに乗っていて転びそうになった。駆け込み乗車をしようとしたのか、すごい足音でエスカレーターを歩いて下りてくる若者が、途中で立っていた記者にぶつかったのだ。持っていた杖を落としてしまった。下に人はいなかったが、場合によっては事故につながった可能性もあり、肝を冷やした。
無意識が生む危険
脳出血で右半身麻痺の後遺症があるため、エスカレーターでは左手で手すりを持っている。握力の弱い右手で杖を持っていたが、ぶつかった衝撃で手を離してしまった。
関西ではエスカレーターの左側を空ける習慣が残っており、左側に立っていると「早くいけ」と罵声を浴びせられることもある。加えて、片側をすり抜けざまに接触し、ヒヤリとさせられることも多い。ぶつかった人には軽い接触でも、身体の麻痺した記者にとっては大きな衝撃だ。
ぶつかってきた若者は「すみません」と落ちた杖を拾ってくれて、ホームへ走っていった。彼に悪意があったとは思えない。杖を持ってエスカレーターに乗っている障害者の存在が、視界に入っていなかっただけだろう。ちょっとした気づきがあれば、エスカレーターで歩くのをやめてくれたかもしれない。
AIが見守る駅
名古屋市はエスカレーターの立ち止まり利用を義務付ける条例をつくっている先進都市だが、条例を浸透させるため、AIを使ってエスカレーターの歩行をリアルタイムで注意するアナウンスを行う「エスカレーター見守り君」を導入した。このシステムでは、エスカレーターを歩いている人、待機列の発生などをAIが検知。状況に応じてピンポイントで注意を促す音声を流す。システムの導入前後で、エスカレーターの歩行率は15.6%から7.9%と半減した。
システムを開発した来栖川電算の取締役、山口陽平さん(48)は「この仕組みは良いマナーを後押しするものなんです」と話す。アナウンスで違反を警告された人は、居心地の悪さを感じ「次はやめよう」と考える。また「片側空けをしないように」と考えても後ろの人がどう思っているのか不安になる人もいるが、アナウンスを聞くと「これでよかったんだ」と安心する、といった具合だ。
行動変容の仕組み
同社は自動運転の際に周囲の人や物を検知する仕組みを応用し、実証実験などで試行錯誤を繰り返してシステムを完成させた。当初は「条例違反です」という厳しい言葉や激しい警報音を使っていたが、検証の結果、簡潔なメッセージで注意を促せば、強い言葉を使用せずとも、警報音なしでも効果があることが分かった。さらに、実際に立ち止まったことをAIが検知すると「ご協力ありがとうございます」というお礼の放送が流れるところもポイントだ。
このシステムは名古屋市営地下鉄名古屋駅など3駅と福岡市地下鉄の2駅の計5駅で本格導入。いずれの駅でも成果があがっており、来栖川電算には全国の鉄道事業者から問い合わせが相次いでいる。
平日の午後、システムが実装されている名古屋市営地下鉄伏見駅では、列車がホームに滑り込むと乗客たちがエスカレーターへ向かう。先頭の若い女性がすごい勢いで駆け上がっていったが、アナウンスが流れると、続く若い男性はその場でストップ。「ご協力ありがとうございます」とお礼のアナウンスが響き、以降の乗降客たちは自然と2列で乗るようになった。
条例ができたといっても罰則はない。山口さんも「このシステムは全員にルールを守らせるというものでもない」と話す。ルールも大事だが、ルールだから守れという押し付けだけではなく「ちょっとした気づき」が重なって世の中が変わることもある。それをテクノロジーが支えてくれたらうれしいと思う。



