元ロッテ里崎智也さん「自信道」自分を信じ選んだ道
元ロッテ里崎智也さん「自信道」自分を信じ選んだ道

元プロ野球・千葉ロッテマリーンズの里崎智也さん(50)は、2度の日本一と世界一を成し遂げた。小学生からキャッチャー一筋だ。試合に出ることを大事に選択し、「自分の能力に合った戦う場所を選び、一番になる」という。高校、大学、プロへと、自分を信じて進んだ道は、甲子園とは無縁だった高校時代に恩師と出会ったことから始まった。

野球は小学校2年生から、キャッチャーは4年生から

野球は小学校で、2年生から始めました。誰かの影響というより、「男子は野球、女子はバレーボール」の選択肢しかありません。ポジションは監督が決めるので、4年生でキャッチャーになって、それから一筋です。

強かったですよ。小学校も中学校も県で優勝。多くの高校の先生が家に誘いに来て、「どうやって甲子園に行くか」と話すんです。それが普通ですが、鳴門工業の監督、高橋広先生(71)は違う。「卒業してからどう生きるか」と未来の話です。人生まで責任を持って考えてくれる。心に響き、「先生についていく」と決めました。すべての始まり、僕のスタートラインです。

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実戦が一番、試合に出られる場所を選ぶ

僕らの世代の鳴門工は強くなく、最後の夏も3回戦でコールド負け。「19歳から働くの嫌やな」。いつも先生は大学行くなら東京と話していました。全国の強豪が集まり売り込むチャンスがあるからです。

先生が帝京大を探してくれました。「強いところより、補欠ではなく試合に出られるところ。それが一番大事」と教えられました。団体競技は、自分の能力に合った環境で上位にいることが大切です。実戦で成長するからです。2年生からレギュラーです。4試合連続本塁打を打ち、プロから注目されました。子どもの頃、プロ野球は考えたこともなかったです。

プロ入り後、試練と転機

1998年のドラフト(新人選手選択)会議でロッテに2位で入団しました。高橋先生や大学の先生から「ロッテに行け。キャッチャーがおらんから」と勧められ、「逆指名」しました。プロは憧れでなく仕事ですから、強い球団より試合に出られる球団を選ぶ。前年最下位で出られる可能性が一番高い。まずレギュラーになることでした。

入団後、手首を骨折して2回手術し、一軍と二軍の行き来です。2003年の5月4日、福岡ダイエーホークス戦の延長十一回、代打の代打で決勝の適時三塁打を打ちました。その年2試合目。鳴門のおばあちゃんが前日に亡くなり、母親に「葬式に出ても喜ばない。今頑張ることが先だから帰ってこなくてもいい」と言われていて、涙のヒーローインタビューでした。

考え方を変え、打率3割1分9厘に

もう大卒5年目で時間はない。もっと練習して能力を上げ、「全部の球を打ちたい」と理想を追っていました。西武から移籍してきた原井和也さん(58)に試合中のベンチで、「全部打とうとしても一生打てない。頭を使い狙い球を打てば打率は1割上がる」とボソッと言われ、「あっ、そうか」。自分がどうしたいかより相手がどうしたいか。内向きから外向きに考えを変え、投手の癖や心理、配球を研究しました。この03年、打率が一気に3割1分9厘に上がり、一軍に定着しました。

05年、ロッテは31年ぶりに日本一になり、年配のファンに「生きている間に、もう一度優勝を見せてくれた」と感謝され、うれしかった。翌年の「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」も優勝しました。

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引退、恩師との35年間

14年に膝を手術し、「もう無理だな」と引退、僕の能力なら満点の野球人生でした。鳴門工で高橋先生に出会わなかったら今の僕は絶対にない。15歳から35年関係があって、こんないい人生になると思わなかった。夢は超えられます。

<ふるさと>徳島県・鳴門市 野球一筋の思い出

小学校は1学年40人ぐらい。男子は19人しかいなくて3分の2が野球をやってました。強くて県大会で優勝し、中学3年生で四国大会に行きました。鳴門は高校までしかいなかったから、自転車で行ける範囲しか行ったことがありません。ほぼ家と学校の往復ですよ。今と違って休みもあまりなく、思い出は野球だけです。

ロッテの入団契約金で、小、中学に部室、高校にバッティングマシンを贈りました。徳島は人口に比べて多くのプロ野球選手を輩出しています。僕らの時代と違い身近な存在、子どもたちは夢を持ってくださいね。

仕事と年末年始の帰省で、年に5、6回、帰ります。よく行く活魚料理店があります。はまち刺身定食を注文することが多いですよ。

取材後記

里崎さんの恩師で、現神戸医療未来大硬式野球部監督の高橋広先生は「アドバイスはしたけど、選択の最後は彼が決定し、勝ち組になっていった」と努力を認める。

人気のユーチューブは「みんなに評価されることはあり得ない。共感してくれる人に届けばいい」。現役中も一緒で「嫌われても勝てばいい」とプロの信念を貫いた。

ミットを手に気さくにポーズに応じてくれる飾らない人柄で、色紙に自身の言葉で「自信道」と記した。「自分を信じられない人が、人から信じてもらえますか」 自ら選んだ道で夢を超えていく人なんだと思った。(南野々子)※2026年9月3日の読売新聞朝刊(大阪本社版)に掲載。年齢、肩書などは紙面掲載時のものです。