夏の甲子園で初めて決勝に進出した健大高崎の原動力は、「谷間の世代」と言われた3年生たちだった。地元の高崎市に戻り、集まったファンに感謝を伝える石田雄星主将(23日、高崎市役所で)=河野夏帆撮影
「谷間の世代」と言われた3年生
今年の3年生には、1学年上の石垣元気(千葉ロッテマリーンズ)や佐藤龍月(オリックス・バファローズ)のようなスター選手はいない。昨秋の県大会は準々決勝で敗退し、県内の公式戦連勝記録が33で途絶えると、SNSに「谷間の世代」や「今年の健大は弱い」といった書き込みが相次いだ。中には、部員の多くが県外出身ということから、校名をもじった「県外高崎」とやゆする投稿もあった。
2024年春からの甲子園連続出場を逃した冬場は、がむしゃらに練習したが方向性が定まらなかった。3月にはシートノックでミスが続くこともあり、コーチからこっぴどく叱られた日の夜、部員だけのミーティングで副主将の大岩翔斗(3年)が目を赤くしながら訴えた。「俺たちは県外からわざわざここに何をしに来たんだ。甲子園に行くためじゃないのか」
結束を深めた3年生の絆
大岩の姿にチームは変わった。なれ合い、ミスを見逃しがちだった選手たちが練習から互いのミスを厳しく指摘するように。3年生の絆は深まり、ベンチ外のメンバーも含めて全員が県大会初戦から、昨年12月の沖縄合宿で撮影した集合写真を「お守り」としてポケットに入れるなどして試合に臨んだ。
監督の青柳博文(54)は「3年生は大事なところで勝てず本当に弱かったが、意地を見せてくれた」と語り、主将の石田雄星(同)は「3年生は家族みたいな存在。くじけずにやってこられたのは皆がいたから」と力を込めた。
「弱者の兵法」から築いた道のり
青柳はこれまでの道のりを「毎日トンネルを掘り続けるような感覚だった」としみじみと振り返る。勤めていた会社を辞め、2002年に創部した健大の初代監督に就任したが、前年度に共学になった学校には専用グラウンドがなく、割り当てられた狭いスペースの草刈りや石拾いを行って練習。チーム運営のために借金もした。
練習試合を断られるなど歯がゆい思いもしたが、05年にコーチに就いた現部長の生方啓介(45)と組織作りを進め、11年夏に初めて甲子園に出場。勝ち筋を探る「弱者の兵法」(生方)として生まれた「機動破壊」を旗印に甲子園常連校に成長すると、近年はプロを見据えた有力選手が集まるようになり、24年春に全国優勝を遂げた。
健大に選手が集まる理由は全国トップクラスの充実した指導体制や練習施設だけでなく、進路支援が大きいという。2年秋以降から進路希望を聞き取り、大学進学を希望する場合は野球の技能や学力に応じて進学先を提案する。青柳らが大学野球関係者に選手を紹介するなどし、3年生の多くは夏頃までに進路が固まる。青柳は「全員がベンチに入れるわけではない。健大を選んでくれた以上は自分の子供のように接することが大事」と強調する。
決勝の敗戦と新たな挑戦
深紅の大優勝旗まであと一歩届かなかった今大会。22日の決勝は、準決勝まで3失策の堅守がほころび失点につながった。青柳は試合後、「力不足。日本一になるための力はまだない」と負けを認めた上でこう続けた。「智弁和歌山の打線は迫力が違った。そういう打線を作りながら、投手育成をしていけば日本一の可能性はある」
惜敗後、「監督人生をかけて日本一を取りにいきたい」と繰り返す青柳は、早速新たなチーム作りを模索している。夏の全国制覇に向け、挑戦は続いていく。(敬称略。この連載は、小堀太暉が担当しました)



