あの戦争は簡単に語ることはできない。でも伝えたい――。11歳で巻き込まれた沖縄戦の記憶を60年以上にわたり、手記にしたためている男性がいる。高校教諭だった20歳代から、少しずつ書きためてきた。体験者が年々減っていく中、「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)と伝えることが、生かされた者の使命」との思いでペンを執っている。
「鉄の暴風」の中を逃げ惑う
「話した内容はいつか忘れられてしまうかもしれない。でも、文章は永遠に残る」。沖縄県宜野湾市の大城勇一さん(92)は数百枚に上る手記の中から、B4判の原稿用紙約30枚のつづりに目を落とした。「私の戦争体験記」と丁寧な文字で書かれた表紙をめくると、戦中の記憶が詳細に書き留められていた。
1945年4月、米軍は沖縄本島中部に上陸。当時、大城さんが暮らしていた南風原村(現南風原町)にも迫っていた。両親と姉2人、祖母、いとこら親族9人で、米軍の弾が雨あられのごとく飛び交う「鉄の暴風」の中を逃げ惑った。
地獄さながらの光景
「前へ進むこともできなければ、後へさがることもできない」。祖母やいとこの子らとはぐれ、家族ら6人で南部の摩文仁村(現糸満市)を目指した。途中、風船のように膨れ上がった男性や顔がえぐられた少年兵、内臓が飛び出た死体が累々と横たわっていた。
「この世のものとは思えない地獄さながらの光景であった」。振り向いたり、立ち止まったりする大城さんを、穏やかだった母・ジラさんは「早く歩かんか! 置き去りにされるよ!!」ときつく叱った。木にぶら下がっていたたくさんの白い布は、日本軍が降参した印ではなく、吹き飛ばされた包帯だった。「キビが欲しい」と言って倒れた長姉・菊さん(当時18歳)を介抱していた時、突然襲われた。
手記に込めた平和への祈り
大城さんは20歳代から教員を務める傍ら、沖縄戦の記憶を少しずつ書き留めてきた。手記は数百枚に及び、その一部は「私の戦争体験記」としてまとめられている。体験者が年々減少する中、彼は「命どぅ宝」の精神を後世に伝えることを使命と感じている。
「文章は永遠に残る。私の体験が、二度と戦争を起こさないための教訓となれば」と大城さんは語る。彼の手記は、沖縄戦の実相を伝える貴重な証言として、平和教育の場でも活用されている。



