情報のスピードが重視されるSNS時代においても、やりとりされる言葉の表面的な理解ではなく、相手の文脈や意図を想像することは重要だ。異なる価値観や共感できない論理に触れ、相手の文脈を想像し、主体的に良質な言葉を選ぶ姿勢が、精神の健康と真の対話を守る。実践的読解力を養う入門書『読む技法』(中公新書)の著者で文芸評論家、明治大教授の伊藤氏貴さんに話を聞いた。
暗黙知のズレを前提に
読解力とは何か。「読む」とはどういうことなのか。「ある人が『犬を飼いたい』と言ったとき、あなたが思い浮かべるのは大型犬でしょうか、それとも小型犬でしょうか。はたしてそれは、相手が思い浮かべているイメージと完全に一致しているでしょうか」
人が頭の中で描くイメージと、それを表す「言葉」は完全にイコールにはならない。そこには必ずズレが生じる。対面であれば、身ぶりや表情からそのズレを埋められるかもしれないが、文章を読む作業において、作者と読者をつなぐものは「言葉」しかない。正しく「言葉」を受け取るためには、作者との共通認識を探り「言わなくても伝わるはず」という暗黙知のズレを調整していくことが求められる。伊藤さんは「言葉の表面だけではなく、文脈から『相手の頭の中にいるのはどういう犬か』を想像すること。それが『読む』という作業の本質です」と話す。「読む」とは、言葉が持つズレを前提とした上で、その裏にある相手のイメージや論理、そしてお互いの違いを想像し、歩み寄るための技術なのだ。
即時性に奪われる思考
現代は多様性が広がり、人々の前提や関心がバラバラな時代だ。「暗黙知のズレ」を調整することが、過去のどの時代よりも難しくなっている。そのうえ、SNSの登場によって、言葉の表面だけを捉え、スピードを重視した「脊髄反射的」なコミュニケーションが幅を利かせている。伊藤さんは「読むという作業があまりにおろそかにされている」と警鐘を鳴らす。
「現代人はSNSを通じて昔よりも大量の活字に触れていますが、その細切れのテキストは『スナック菓子』のようなもの。いくら消費しても、読解力の向上にはつながりません」言葉の表面ばかりを追うことは、精神の健康や思考の質にも悪影響を及ぼす。スマートフォンのアルゴリズムによって自分の好きな意見ばかりに囲まれるようになると、無意識のうちに世界の見方が極端に偏り、ときには陰謀論に支配されてしまう恐れもある。画面越しにしか世界を見なくなれば、言葉の向こう側に「生身の人間がいる」という想像力すら失っていく。さらに、短い言葉が大量に押し寄せる中で発信と受信を繰り返していると、自分が「本当は何を言いたいのか」「何を読みたいのか」を深く見つめる時間すら奪われてしまう。「SNSの即時性は、立ち止まって相手の意図を想像する力や、自分自身の内面を深く思考する時間を奪ってしまう。自身の思考を深めるためには、言葉の出入りを制限する時間が必要」と説く。
古典が育む共生の土台
健全な思考と精神を保つには、向こうから勝手にやってくる言葉の濁流にただ流されるのではなく、ある程度「質が担保されている」媒体を見極め、選ぶことが大切だ。現代こそ、図書館や本屋へ足を運び、本棚全体を眺めながら「自分の力で選択する」能力、良質な言葉を自ら取りに行く能力が求められている。
伊藤さんは、「タイムパフォーマンス(時間対効果、タイパ)を重視する風潮にあらがい、長いものに腰を据えて耐える訓練として『古典』を読みましょう」と呼びかける。「古典には、長い時間を生き残っただけの価値がある」時代背景や文化が異なる古い時代や外国などの作品は、見知らぬ言葉に立ち止まり、調べながら読むこと自体が深い読解の訓練になる。最初は難解でも、解説文に触れたり再読を重ねたりするうちに意図が見えてくる。「分からなかったものが面白くなる」という大きな喜びを経験できるはずだ。
丁寧な読解のプロセスは、全く理解や共感ができない相手に対しても「その人の中にはちゃんと論理がある」と考え、その背景を想像しようとする態度を養う。現代社会では自分と相いれない他者と付き合わざるを得ないが「その際に対立するだけでなく、対話の糸口を見いだすことができる」。あふれる情報に流されず、主体的に言葉を選び、時間をかけて他者の文脈を読み解く姿勢は、多様な人々が共生する社会の土台となる。「自分の好きなもの、共感できるもの以外を知ることは、生きていく上で役に立つし、だから社会が成り立っているんです」(三宅令)
◇いとう・うじたか 昭和43年、千葉県出身。平成14年に「他者の在処」で群像新人文学賞(評論部門)を受賞。「高校生直木賞」実行委員会代表、中学・高校の国語教科書の編集に携わる。著書に『奇跡の教室』(小学館)、『樋口一葉赤貧日記』(中央公論新社)など。



