6月下旬の南アルプス・仙丈ヶ岳(3033メートル)で、山頂直下の馬の背ヒュッテ付近に伊那市や環境省、林野庁などの関係者15人が集まり、ニホンジカの食害から高山植物を守るための防鹿柵の設置作業を行った。柵は金属製のワイヤを編み込んだネット状で、高さは2メートルにもなる。
約20年にわたる対策
柵を設置するのは、地元の伊那市や環境省、林野庁、信州大学などでつくる「南アルプス食害対策協議会」の関係者や地元のボランティア。シカが栄養価の高い高山植物を求めて高山帯に移動してくるのに合わせ、毎年6月頃に柵を据え付け、雪が降り始める10月頃に撤去している。
南アルプスでシカの食害が顕在化したのは1990年代後半。かつては高山植物が咲き乱れ、「花の仙丈」と呼ばれたお花畑はほとんどが消失した。危機感を持った地元伊那市が中心になって2007年に同協議会が設立され、約20年間にわたり対策を進めてきた。今季はこれまで対策が取られてこなかった北荒川岳で防鹿柵の設置を始め、環境省からの委託分も含め全体では約3300メートルの柵を張った。
回復の兆しと厳しい現状
伊那市50年の森林推進課の向山一樹さん(34)は「すぐに効果が出るわけではない難しい事業だが、20年で確実に回復は進んでいる。関係機関と協力して、長期的な目線を持って取り組みたい」と語る。
協議会は、シカの季節性移動に合わせて捕獲も周辺で実施しているが、柵がない場所では食害が収まる気配はなく、シカが歩き回ることでできるシカ道が無残な姿をさらしている。環境省伊那自然保護官事務所の石橋岳志さん(64)は、まばらに黄色い花を咲かせ始めたシナノキンバイを見つめながら「手間はかかっても柵がなければ植生の回復が止まってしまう」と厳しい現状を吐露する。
上高地でも新たな局面
一方、これまでシカによる大きな食害が出ていなかった北アルプスでも、新たな局面を迎えつつある。昨年度、自然公園財団上高地支部などが、上高地の大正池付近で捕獲したメスジカに首輪型のGPS発信器を装着し、行動を調査したところ、冬を迎えても標高約1600メートルの樹林帯にとどまり、シカの一定数が越冬している可能性が極めて高いことがわかった。
調査は、上高地に現れるシカが別の場所から夏の間に移動してくるという前提で、シカの供給源を調べるのが目的だったが、意外な結果に関係者は驚きを隠さない。調査メンバーで同支部の香取草平さん(32)は「当初の想像を超えて定着が進んでいる可能性がある」と危機感をあらわにし、調査に参加した信州大学の泉山茂之特任教授も「対策を急がなければ南アルプスのようになりかねない」と警鐘を鳴らす。
環境省などによると、上高地では14年以降にシカの目撃情報が寄せられるようになった。今のところ、上高地のシカの生息密度は低いと考えられるが、一部ではニリンソウやミツガシワなどへの食痕が確認され、上高地から続く蝶ヶ岳などの高山帯でもシカが目撃されているという。
同省は22年から大正池付近で高山帯でのシカの試験捕獲を続けているが、今秋からは、林野庁も初めて上高地内での捕獲を始める予定だ。環境省信越自然環境事務所国立公園課の鈴木祥之課長は「被害が顕在化してからではその後の対策が間に合わない。現状から対策の検討を進めたい」と話した。



