天正9年(1581)2月28日、織田信長は京都で大規模な「馬揃え」を催した。イエズス会宣教師ルイス・フロイスによれば、参加者は13万人を超え、20万人もの群衆が集まったという。武将たちは華やかに着飾るよう命じられ、キリシタン大名はロザリオや十字架、西洋風マントなどを競い合った。信長自身は金紗の唐織物、紅梅に白の模様の小袖をまとい、ヴァリニャーノから贈られた黄金装飾の赤い椅子に座った。この馬揃えは、明治維新前の日本で最も西洋色が強まった瞬間とされる。
大河ドラマが描く「変事の予兆」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第25回「変事の予兆」(6月28日放送)でも、この馬揃えが描かれる。四国の覇者・長宗我部元親(磯部寛之)が女物の装束で参加し、小一郎(仲野大賀、のちの羽柴秀長)に四国平定後の土佐の魚を約束する。しかしその後、信長(小栗旬)は明智光秀(要潤)を呼び、元親の四国平定を認めないと宣言。「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」と伝える。
史実でも、この信長の言い渡しが「変事の予兆」だった可能性が高い。本能寺の変(天正10年6月2日)の原因として、現在「四国説」が最も有力視されている。簡単に言えば、信長が長宗我部元親の四国平定を一旦認めながら手のひらを返し、仲介役だった光秀が窮地に立たされたというものだ。
信長の手のひら返しと光秀の苦悩
信長は当初、四国統一を目指す元親と同盟し、光秀を取次役に任命した。しかし天正9年頃、信長は方針を転換。元親に土佐一国のみを認め、残りを織田家の直轄とするよう要求した。元親は拒否し、信長は四国征伐を決意。光秀は信長と元親の板挟みとなり、立場を失った。
歴史評論家の香原斗志氏は「近年の研究では『四国説』が有力だ。光秀は信長の要求との板挟みにあい立場を失った。その裏には光秀以上に追い詰められていた人物がいた」と指摘する。その人物こそ、明智光秀配下の武将・斎藤利光である。
斎藤利光こそ首謀者か
斎藤利光は光秀の重臣で、長宗我部家との交渉を実務面で担当していた。信長の態度急変により、利光は自らの政治的生命が絶たれる危機に直面。光秀以上に追い詰められ、本能寺の変の首謀者となった可能性が高い。当時の公家の日記には、変の前に利光の動きを警戒する記述があり、首謀者が誰か知られていたとされる。
香原氏は「『彼こそは変の首謀者だ』と評される。利光は信長への恨みと失地回復のため、光秀を決起に導いた」と解説する。変の後、利光は山崎の戦いで戦死したが、その役割は近年再評価されている。
四国説の意義と今後の研究
本能寺の変の原因は従来、光秀の怨恨説や野望説など様々だったが、四国説は一次史料に基づく説得力を持つ。信長の四国政策の急変が、光秀とその配下を追い詰め、クーデターに至らせた構図は、現代の組織力学にも通じる。
大河ドラマでもこの説が取り上げられることで、一般の理解が深まることが期待される。歴史研究の進展により、本能寺の変の全貌は今後さらに明らかになるだろう。



