2026年6月にプレジデントオンラインで大きな反響を呼んだ人気記事ベスト3のうち、エンタメ・教養部門第3位は、歴史研究家の皆木和義氏による「『腰抜け』と罵られても…『汚れ役・悪役・憎まれ役』を引き受け徳川260年の礎を築いた『無私の武将』の名」である。この記事は、皆木氏の著書『軍師の戦略 増補改訂版』(クロスメディア・パブリッシング)からの再編集抜粋だ。
徳川幕府確立の最大の功労者
戦国乱世を終息させ、徳川幕府による260年余の太平の世を築いた英雄・徳川家康の腹心こそ、本多正信である。『名将言行録』には「人となり深沈膽略あり。明察果断一時比なし」と評され、落ち着いて動じず大胆で知略に富み、事態をはっきり見抜いて思い切った決断ができる人物だったと伝わる。徳川幕府確立の最大の功労者と評価してよいだろう。
家康に「友」と呼ばれた唯一の家臣
しかし、『徳川実記』や『三河物語』などによれば、その評判はあまり良くない。特に徳川家の武功派(武断派)の家臣たちからは嫌われ、佞臣や奸臣呼ばわりされた。権力闘争のライバルや敵対する側から悪く言われるのは世の通例だが、これは文治派の優れた吏僚(役人)、行政官僚ゆえの宿命ともいえる。現代でいえば、現場たたき上げの営業幹部が、現場の苦労を知らない管理部門の経営企画や総務、経理の幹部を非難するのに似ているかもしれない。
同族で徳川四天王の一人である本多忠勝からは、「佐渡の腰抜け」(正信の官名が佐渡守であったことから)と罵られ、「同じ本多一族でもあやつとは全く無関係である」と散々な言われようだった。
戦わずして勝つ戦い方を身につけた理由
本多正信は、戦場での華々しい武功よりも、知略と政治力を駆使して戦わずして勝つ戦い方を重視した。不得手な合戦での戦闘能力で勝負するのではなく、調略や外交によって敵を崩す手法を好んだ。その姿勢が武功派の家臣たちから「腰抜け」と蔑まれる原因となったが、家康は正信の価値を深く理解していた。
「強からず、柔らかならず」
正信の行動原理は「強からず、柔らかならず」という中庸の精神にあった。強硬すぎず、かといって柔弱すぎず、状況に応じて最適な判断を下す。この姿勢が、家康の長期政権を支える基盤となった。
領地の加増を断り続けた無私の生き方
特筆すべきは、正信が領地の加増を何度も断り続けたことだ。権力や富に執着せず、自分の分をわきまえた無私無欲の人生を貫いた。皆木氏は「『足るを知る仕事術』を完遂したといえる」と評する。この無私の姿勢こそが、家康から絶大な信頼を得た理由であり、徳川260年の礎となったのである。
「足るを知る仕事術」の実践
正信は、自らの役割を徹底的に理解し、主君・家康に忠義を尽くすことに専念した。汚れ役や悪役、憎まれ役を進んで引き受け、表舞台に立つことなく影で支え続けた。その生き方は、現代のビジネスパーソンにも通じる「足るを知る」仕事術の極致といえる。



