北朝鮮から日本や韓国に逃れた脱北者50人の証言を集めた書籍が出版された。北朝鮮側の「地上の楽園」との宣伝を信じ、帰還事業で祖国に戻った人たちが直面した過酷な現実を記録している。
「清津ショック」と監視社会
金栄三さん(67)は、万景峰号で北朝鮮に到着した時から「いつか日本に戻ってやる」と思っていたと語る。歓迎に動員された人々のみすぼらしい姿や不衛生な環境に強烈な臭いが漂う中、新潟港から帰国船に乗り込んだ人々の歓喜は、2日後に清津港に着くと同時に失意に変わった。
一般社団法人「『北朝鮮帰国者』の記憶を記録する会」(大阪)のメンバー13人が、2018年から延べ350時間にわたって脱北者50人から聞き取った内容を「証言・北朝鮮帰国者 祖国に渡った『在日』はどう生きたか」(536ページ、集英社新書)にまとめた。
北朝鮮に戻る前の生活を収めた第1章に続く第2章は「清津ショック」。船から下りないと抵抗する若者や、家族への申し訳なさから涙を流す大人の姿も記されている。
金さんの体験と脱北
金さんは大阪市西成区生まれ。父は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の専従職員で、朝鮮総連からの指示で金さんが朝鮮中学3年だった1973年6月、家族4人で帰国した。清津港に着いた時の失意は、その後の生活の中で膨らんでいった。知人がスパイ容疑で逮捕され、父は自分や家族も事件に連座するかもしれないと恐怖し、帰国を心底後悔していたという。
政治や社会への不満を漏らしたり、韓国の映画を見たりしたことがわかると、一家全員が政治犯収容所に送られ、銃殺刑になることもあると人々の間では知られていた。金さんは取材に「監視、密告社会で、自分の考えを口にできず、思考停止にならないと生きていけない。そこの我慢が一番しんどかった」と振り返った。
平壌の名門大学を出た後は、中古の日本製テレビゲーム機2台を置くゲームセンターを開いたり、貿易会社に勤めたりして生計を立てた。生活には困らなかったが、脱北のための情報収集は怠らなかった。両親は北朝鮮で死亡した。稼いだ2万ドルを脱出費用にして、2008年12月に妻と2人の息子と共に中国に越境した。潜伏中に、電話番号を覚えていた知人を通して朝鮮中学時代の親友とつながり、NGO「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」(東京)の支援で09年7月、関西空港に降り立った。
金さんは「生まれ育った日本に戻る日をずっと夢見ていた。朝鮮中学時代の同級生が『お帰り』と言ってくれたのが何よりうれしかった」と語った。
出版記念報告会と歴史の記録
5月の出版に合わせ、金さんも参加して大阪市内で出版記念報告会が開かれた。編集を担当した「記録する会」事務局長で、フリージャーナリストの石丸次郎さん(64)は登壇し、「どうやって生きてきたのかの証しをきちんと記録に残さないといけないと考えた」と話した。
在日コリアン3世の朴沙羅・京都大准教授(社会学)は「(帰還事業での)帰国者がいかに北朝鮮社会に翻弄されたかを示す本だ。どのページを読んでもつらかった。過去の歴史として終わらせてはならない」と語った。
帰還事業は、日朝両政府の了解のもと、日朝の赤十字が1959年に始め、84年までに在日朝鮮人と日本人配偶者ら9万3340人が新潟港から北朝鮮に渡った。朝鮮総連は、教育、医療が無償の「地上の楽園」と宣伝し、日本側も「人道的措置」と後押しした。帰還事業で北朝鮮に渡った後に日本や韓国に逃れた人とその家族は約600人いるとされる。



